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建部凌岱展 その生涯、酔たるか醒たるか:2 /板橋区立美術館
(承前)
「生涯酔たるか醒たるかしるべからざる人」とは、『続近世畸人伝』(1798年刊)からの引用。
“酔っ払っているんだか、しらふなんだか、ようわからん人” というわけで、当時の評者も、凌岱の実像を捉えることには苦慮していたようすがうかがえる。
この前段には、兄嫁との恋仲がばれて出奔し、いったんは剃髪したものの還俗、全国を旅して句や歌を詠み、物語を創り、そして画を生業とした……といった凌岱の履歴が述べられている。なお凌岱の家は弘前藩の名門で、父も兄もその子も、みな家老を歴任している。たしかに波乱万丈で、めちゃくちゃ。
常識では割り切れぬ人物性を、単刀直入に示すこの一節。展覧会名に起用されたのも納得だ。
このように「酔たるか醒たるか」との評言はその生涯に対してのものであったが、絵画にも当てはまるのかもしれない。
凌岱の画風・筆致が「かっちり系」――「醒たる」に近いものと、「酔たる」との親和性が感じられる「ざっくり系」に、それこそかなり「ざっくりと」分けられそうだからだ。
花鳥図(公式ページの《五寿図》《威振八荒図》など)や山水図には、「かっちり系」のものが見受けられる。とくに《明和南宗画帖》などは、がっちがち。観ているこっちまで緊張してしまうくらいの硬質さである。
これらに共通するのは、中国・明清の絵画がお手本となっていること。花鳥は長崎遊学時に触れた沈南蘋の作、山水は大坂の木村蒹葭堂に見せてもらった明清の文人画の強い影響下にあり、お手本を忠実に学びとろうと慎重に筆を運ぶようすがうかがえる。「醒たる」凌岱。
がちがちの《明和南宗画帖》を観ていると、凌岱という人は、取り組む対象を呑み込んで自分のものにするまでには、存外にある程度の時間を要するタイプだったのかもと思えてくる。案外まじめで、案外不器用。そう解釈すると、親近感が湧いてくるもの……
ともあれ、それ以外の絵は「ざっくり系」ということになる。
画業の初期から描いた俳画が最たるものであるが、技量の円熟した後年には、「へたうま」もしくは「へた」とはまた違った、「墨技」ともいえるざっくばらんな筆の冴えをみせる。魚介類を描いた《海錯図》がその代表か。
そんな凌岱の「ざっくり性」は、作品解説では「細かいことは気にしない」質(たち)と言い表されていた。輪郭からはみ出ようと、形が多少狂っていようと、気にもかけない。
《海錯図》の魚たちも、生物学的に見て正確な描写ではないのだという。
それでも、生命の躍動をしかと感じとることができるのは、凌岱の墨技の巧みさゆえなのだろう。(つづく)