画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎:2 /静嘉堂文庫美術館
(承前)
古物のコレクターであった松浦武四郎。愛蔵品に囲まれて昼寝に耽るさまを、不遜にもお釈迦さまの臨終の場面になぞらえてしまった珍妙なる画軸……それが、河鍋暁斎《武四郎涅槃図》(明治19年〈1886〉 松浦武四郎記念館 重文)である。
構想から完成まで、足掛け6年を要したという。その間、「これも足してくれ」「あれも描いてくれ」といった具合で、武四郎からの要望は膨らんでいく。暁斎はずいぶん難儀な思いをして、ぶーたれながら本作を仕上げたとか。
そんな、やっかいな注文主にしてこの絵の主人公、いわば “御本尊” の武四郎翁の姿をみてみよう。
下が、当人の写真。似ている。
生前唯一というこの肖像写真でも、涅槃図でも、さも誇らしげに首からジャラジャラと下げているのが《大首飾り》(縄文~近代 静嘉堂)である。
「縄文~近代」という、とても広い制作年代となっているのは、古い勾玉や管玉を基調として、武四郎と同時代のもので補いながら、新たに編み上げた首飾りだから。この状態で出土したわけではなく、古くて新しい。
このように、時代も産地も問わずに気になるものをとにかく集めまくり、秩序立てて編集しなおすという行為は、武四郎が出版物のなかでおこなってきたことと同義といえる。
他にも、由緒ある古建築の材を集めたわずか1畳の書斎「一畳敷(いちじょうじき)」がそうであるし、もちろん、この《武四郎涅槃図》だってそういった側面をもっている。《大首飾り》は、武四郎という人物の真髄がよく表れた遺物なのだ。
武四郎が横たわる後方、八足の卓の上に、小さな人形の類がごそっと置かれている。旅先で買ってきた土産物の人形がぎっしり並ぶ、おばあちゃんちの戸棚のようである……このあたりの怪しい品々が、かなり現存している。
美術的価値の認められるものは、ほぼない。そこいらの骨董市に紛れていてもおかしくないくらいだが、「珍妙」で、興味をそそるものではあろう。
以上のように、立体物がそのまま平面の絵画として表された例があれば、他の絵画から人物や動物だけがスルッと抜け出して、涅槃図へお邪魔している例もある。
武四郎のすぐ下で円光を背負う白衣観音は、伝秋月等観《蛤観音図》(室町時代 松浦武四郎記念館 重文)から。
観音さまのすぐ手前の中国人物は、狩野之信《高士釣図》(室町時代 松浦武四郎記念館)にみられるもの。
こちらは高士・唐子ともに、ポーズが改変されている。「釣りなんてしてる場合じゃねえ!」とばかりに、悲嘆に暮れるふたりであった。
涅槃図のパロディであるから、動物たちもたくさん登場する。
画面の最も右下にいる手長猿は周耕《猿猴図》(室町時代 松浦武四郎記念館 重文)の出身。
こちらは、そのままのポーズだ。それだけに、ぶら下がる枝を失った猿など、もはや原形をとどめていないが、のたうちまわっているようにみえなくもない。猿だって、やっぱり悲しい。
武四郎本人いわく、この涅槃図には……
とのこと。手長猿の近くに、たしかに描かれている。探してみてほしい。
この他にも、涅槃図のモチーフとなった玉石混淆の立体物や絵画が、会場には所狭しと並んでいたのであった。
——最後の小さな展示室では、武四郎をめぐる人の縁について特集。
伊勢の大商人・川喜田石水は、武四郎の幼馴染だった。石水も古銭の蒐集が趣味で、武四郎所蔵の中国・戦国時代の貨幣をずっと懇望していたものの、ついに果たせず死去してしまう。武四郎は石水の霊前にその貨幣《刀貨》を供えた。現在も川喜田家の石水博物館に伝わっており、本展にも出品。じつにいい話である。
石水の孫が、銀行経営者にして陶芸家の川喜田半泥子。半泥子は静嘉堂文庫の創設者・三菱財閥の岩崎小彌太と親交があり、茶会に招くなどしていた。そのときに使われた《井戸茶碗 銘 紅葉山》(朝鮮王朝時代 石水博物館)を展示。
また、半泥子と小彌太はともに、明治生命の大株主であったという共通点もある。いま静嘉堂文庫美術館が入っているのは、なにを隠そう明治生命館(重文)である。この場所に、ふたりは定期的に来ていたのだろうか。
人もモノも、武四郎を中心にして、そのまわりを複雑に、ぐるっと取り巻いている。そのさまは、まさに涅槃図のようではないか……そんなふうに思った。
※「一畳敷」は、東京・三鷹の国際基督教大学構内に保存されており、ときおり公開されている。最高の最高。
※あまりにくだらないので書こうが迷うが……かつての知人が、松浦亜弥のモノマネをしながら「松浦武四郎です」と名乗るギャグを得意としていた。松浦武四郎といえば、そのことを思い出す。