浜町から森下へ 江戸東京さんぽ
長く暮らした東京を、もうすぐ離れてしまうわたし。
行きたいと思っていて、まだ行けていなかった場所を、少しずつ巡っていく日々を過ごしている。
そんなある日の小さな旅のもようを、今回はお送りしたい。
■相撲の稽古を見学 ~荒汐部屋
7時30分。旅のはじまりは、都営新宿線の浜町駅。演劇に明るい方であれば、明治座でおなじみだろうか。わたしは、初めて降り立った。
目指すは相撲部屋。浜町駅すぐの荒汐部屋では、道路からガラス越しに稽古を見学できるのだ。
若隆元、若元春、若隆景の3兄弟がそろい踏み……だったかまではわからなかったが、他の部屋の力士たちが徒歩や自転車で次々と出稽古にやってくるなど、熱気と闘志があふれる空気に、朝から身が引き締まるのであった。
■隅田川を歩いて渡る ~新大橋
9時。相撲部屋を後にして、新大橋を歩いて渡ろうとすると、橋のたもとに4、5メートルはありそうな石碑が。
いわく……関東大震災では隅田川に架かる多くの橋が焼け落ち、悲劇の舞台となるなか、この新大橋は災禍を免れ「お助け橋」と呼ばれた。水天宮など近隣の神社の御神体が橋の上に一時避難しており、その御加護だろう……云々といった内容が、水天宮ゆかりの有馬頼寧(競馬の有馬記念にその名を残す)の筆で書かれていた。
訪れた当日は奇しくも、9月1日。101年前に、関東大震災があった日である。なんという偶然。呼ばれて来たのだろうか。ありがたく、「お助け橋」を渡った。
新大橋といえば、さまざまな絵画の風景が浮かんでくる。
まずはなんといっても、歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》だろう。
広重の描いた新大橋は、現在よりも100メートルほどずれた位置に架かっていたというが、直接の後継の橋には違いない。その証拠に、橋の上にはレリーフが取りつけられていた。
鏑木清方《浜町河岸》(1930年 東京国立近代美術館)には、明治期の新大橋が描かれている。
《築地明石町》《新富町》とともに3部作をなす《浜町河岸》。いずれの作も、江戸の情緒をとどめる明治の水辺の街を懐古的に描いている。どの街も、清方自身にとってゆかりある、懐かしい場所であった。
清方がこれらの絵を描いたのは、関東大震災の6年後。街並みや風情は震災で一掃され、江戸ばかりでなく、明治すら遠くなっていた頃である。
新大橋がうっすら、ぼんやりとしているのは、単に遠景・背景ゆえか、それともノスタルジーの賜物か……
清方の弟子にあたる大正新版画の雄・川瀬巴水にも、新大橋を描いた作品がある。《東京二十景 新大橋》(1925年)。
描かれるのは、1878年生まれの清方が懐古する木橋ではなく、1912年開通の鉄橋。暗闇に、鉄骨のシルエットが妖しく浮かび上がる。
この先代の新大橋は、全体の8分の1がカットされ、愛知県犬山市の明治村に移築されている。
中央のプレートに目をやると、漢字で「新大橋」とある。巴水の絵では「志ん於ほはし」。おそらく、反対側なのだろう。
では、巴水の絵にあるプレートは、どこに行ってしまったのか?……と思いつつ対岸を歩いていたら、あった。新大橋近くの江東区立八名川小学校で、保存・公開されていたのだ。これこそが、巴水の描いたプレート!
こんな出合いがあるから、街歩きはやめられない。
※明治村の漢字表記のプレートは復元らしく、実物は東京都中央区の郷土資料館に所蔵されているようだ(参考ページ)
■芭蕉の足跡を確かめる ~江東区芭蕉記念館
俳聖・松尾芭蕉が深川芭蕉庵を結んだ地が、新大橋を渡った対岸の、まさにこのあたり。
誰もが知る郷土の偉人を顕彰する江東区立の記念館では、特別展「松尾芭蕉~その作品と生涯~」を拝見。作品と生涯はもちろん、蕉門の各人やその後の芭蕉顕彰まで通覧した。
■江戸東京・食の名店 ~桜鍋みの家
12時。〆は、芭蕉記念館から徒歩圏内にある桜鍋の老舗「みの家」。昭和29年築のお座敷で馬肉をいただき、精をつけた。
建物の内部には、普請道楽であったらしい店主がこだわりぬいた銘木が、ふんだんに使われている。もちろん、サクラの材は至るところにみられた。
食べて美味しい、観て美味しい。こんな贅沢はない……
——みの家のすぐ下が、都営新宿線の森下駅になっている。
地下鉄でいえば1駅分にすぎないけれど、その短い距離にこれだけのものが詰まっているし、きっとそれは、ほんの一部でしかない。
宝箱のような大東京を、時間を気にせず気ままに闊歩できるのも、残りあとわずかなのだ。
ううむ、まだまだ歩き尽くせていない……
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