古塔と火炎:1
法隆寺、法輪寺、天王寺……
この羅列にピンときた方は、きっとお寺がおすきなのだろう。
聖徳太子ゆかりの寺院……ではない。それをいうなら「四」天王寺だ。
ーーいずれも、不運にも失火に見舞われ、貴重な文化財を失ってしまった寺院の名前である。
昭和24年1月26日、法隆寺の金堂から火の手が上がり、内陣を飾っていた極彩色の壁画は惜しくも焼損してしまった。
「焼失」でなく「焼損」で、物体として失われてはいない。焼けただれてシルエットがかろうじて残ったこの壁画はひっそりと保存され、今秋、クラウドファンディングの支援者限定で初めて公開の運びとなる。一般公開に向けた実証実験を兼ねており、展開しだいでは、将来的に現地でいつでも見られるようになるかもしれない。
なにを隠そう、この支援の輪の末席にわたしも連なっている。
しかとこの目に焼きつけて……とは縁起でもないが、そうはない機会だ。僥倖に感謝を捧げつつ、息をひそめて壁画を見つめてきたい。
法隆寺の大伽藍を東に抜け、矢田丘陵沿いに進んでいくと、ほどなくして法輪寺の三重塔が見えてくる(本日のカバー写真。恥ずかしながら掲出)。
こちらの塔は再建。もとは法隆寺に匹敵する古塔だったものの、昭和19年7月21日、落雷にともなう火災によってあえなく焼失、のち昭和50年に現在の塔が竣工された。
再建に尽力したのが幸田文さん。父・幸田露伴の代表作『五重塔』のモデルとなった谷中天王寺の五重塔は、昭和32年7月6日、心中・放火が原因で焼失の憂き目に遭っている。そんな縁もあって、文さんは法輪寺三重塔の再建事業に力を注いだのだった。
露伴の居宅は谷中天王寺のほど近くで、塔を見ながら『五重塔』を執筆したといわれている。
五重塔が焼けたとき、露伴はもうこの界隈にいなかったが、存命ではあった。焼失の報を受け取って、どれほど残念だったろう。
露伴は何度か転居をし、戦後に千葉県市川市菅野に落ち着いて、ここが終の棲家となった。
菅野は、わたしがいま居る同市中山からも遠くない。中山には日蓮宗の大本山・中山法華経寺があり、近世初期にさかのぼる古い五重塔がそびえている。関東でも珍しい立派なものだ。露伴も、この参道を散歩しただろうか(下の写真)。
露伴が眠る、同じく日蓮宗の大本山・池上本門寺にも、近い時期の五重塔がある。古塔と縁の深い、露伴先生の生涯であった。(つづく)