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仁徳天皇陵と近代の堺 /堺市博物館
世界最大級の墳墓といわれる、大阪府堺市の仁徳天皇陵。その目の前にある堺市博物館で、古墳の「古代」ではなく「近代」にスポットを当てた展覧会を観てきた。
まずは「古代」について、常設展でお勉強。仁徳陵をはじめとする世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」に関する展示がたいへん充実している。さすが、お膝元。
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堺市博の展示空間はU字形をなしており、左半分が常設展示室、右半分が企画展示室。区切りらしい区切りはなく、そのまま企画展に入っていった。
さて、みなさんは「天皇陵」というものを、一度でも見たことがあるだろうか?
奈良盆地や大阪府の東側には、天皇陵がそこかしこにあり、知らずに通りがかることすらめずらしくはない。
もしそうだとしても、そこが古墳の正面であるならば、ひと目で天皇陵だとわかってしまう。なぜなら、外見が決まった姿に整えられているからだ。
すなわち、玉垣の内側に白砂青松の空間が広がり、奥には古墳へ向けて鳥居が建てられている。立て札のとおり、宮内庁によって厳重に管理されており、そのための小屋も設置されている。
このような遥拝所が、すべての天皇陵に共通する特有の風景であるが、こうして統一的に整備されるようになったのは、じつはそこまで古い話ではない。
江戸末期の文久2年(1862)から慶応元年(1865)にかけて、公武合体政策の一環として、幕府は天皇陵の修築と整備をおこなった。この「文久の修陵」が陵墓整備の嚆矢で、本展の起点ともなっている。
修陵以前の草茫々やハゲ山の状態を記録した「荒蕪(こうぶ)図」と、植栽を整え、崩落を直し、遥拝所の原形を築いた「成功(じょうこう)図」が興味深い(以下リンクに画像あり)。
劇的なビフォーアフターぶりは、つまるところ「幕府は朝廷のために、これだけやっていますよ」というアピールであり、デフォルメもなくはないのだろうが、ともかくもこうして陵墓の保全は動き出した。
明治になると、天皇中心の中央集権国家をめざすにあたり、万世一系の根拠を固める意味で、天皇陵はいっそう重視された。
明治11年には初の測量による平面図「明治山陵図」が作製、翌年には文化財調査にもとづく『国華余芳』写真帖へ仁徳陵の写真が収められた。
そして明治19年、宮内省に「諸陵寮」という専門部署が設置。「守長」「守部」と呼ばれる各陵墓の保全担当者が主に地元の名士から選ばれ、任にあたった。
本展では、彼ら土地の人びとから宮内省へ向けて出された請願や伺いといった行政文書を、共同主催者である宮内庁の宮内公文書館より多数借用し陳列。これが、たいへん興味深かった。
宮内省は仁徳陵の周濠や周堤を次々と買い戻していき、さらに、元禄期に埋め立てられていた最も外側の濠の復旧をめざした。折しも周辺住民は水不足に悩まされており、新たな水源の確保は喫緊の課題。ここに、官民の利害がみごと一致し、明治30年代に復旧は成った。本展ではこの過程を、住民による引水の嘆願書など、実際の文書や絵図を駆使して追う。
広大な仁徳陵を守っていくには、適切な手入れを継続していかねばならない。また、しばしば生じるトラブルを、ひとつひとつクリアしていくことも必要だ。
遥拝所や堤防の修築、濠の浚渫などに関して、宮内省からの上意下達ではなく、住民側からみずから提案の声が上がっていたのには驚かされた。たとえば……墳丘に生い茂る竹を伐採させてほしい。鳥がたむろしなくなり、苗木の生育にもよい影響がある……云々。
今も昔も、仁徳陵の存在はまさしく地元の誇りであり、皇室崇敬の思いが背後にはあるにはあったのであろうが、おそらくそれ以上に、当時の人びとにとって、仁徳陵のメンテナンスは生業・生活に直結する重要課題だったのだろう。
ほかにも、仁徳陵のすぐそばを走る阪和電鉄(現在のJR阪和線)が線路の水はけを改善すべく出した、周濠への導水管設置の請願書、仁徳陵の保全担当を長く務めた旧家の当主が職階を上げていくさまがうかがえる発令文書、勤労奉仕によって築かれた参拝道……などなど、天皇陵と近代をめぐる興味深いトピックが満載。
明治10年を皮切りに頻繁におこなわれた堺への行幸・行啓、そして仁徳陵への御参拝、近年の3次元点群データによる分析や「仁徳陵を守り隊」の清掃活動にも言及し、本展は閉幕となった。
——古墳の「近代」をテーマとした企画は、きわめて貴重。しかも今回は、最も著名な古墳である仁徳天皇陵のみを取り上げ、さらに宮内庁の全面的な協力を仰いで、これ以上ないモデルケースとなった。各地の古墳に関しても、近代の状況を知ってみたいと思った。
11月10日まで開催されていた。図録は現在も販売中。
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