我孫子訪問:1
東京五輪の閉会式をBGMにしながら、この記事を書いている。
今回の東京五輪では、日本柔道のめざましい躍進があった。
講道館柔道の創立者・嘉納治五郎は、日本初のIOC委員、JOCの前身組織・大日本体育会の初代会長を務めた人物でもある。幻となった1940年東京五輪誘致でも中心となったものの、志半ばで亡くなった。このあたりのことは大河ドラマ「いだてん」でも描かれたらしい。なにげにタイムリーな人物である。
嘉納は、現在の我孫子(千葉県)に別荘を構えた先駆者でもある。
東京に比較的出やすく、手賀沼を望む風光明媚なこの地は、都会に住む人が別業を営むに適した土地といえる。常磐線の開通からまもない明治の末の我孫子には、まだまだのどかな田園風景が広がっていたというからよいものだ。嘉納も農園を開いて、カボチャやモモを生産していた。
昨日、そんな嘉納の別荘跡を訪ねた。
高台のありふれた公園となっているその地には嘉納の銅像が立ち、生前と同じように手賀沼の方向をじっと見つめていた。晴れていれば沼のむこうに富士山も見渡せるとのこと。「日本選手の活躍に目を細めておられるようだ」などと、時節柄の安直なこじつけが浮かんだ。
嘉納像の視線の先、手賀沼の方向から右に目を遣ると、三角屋根の邸宅が立っている。建物こそ後世のものだが、ここは柳宗悦が若き日に暮らした場所だ。
柳は嘉納の甥。叔父から紹介を得た柳は、大正3年からの7年間、ここで新婚生活を送った。近所にはその後、柳を頼って志賀直哉が移住し、武者小路実篤も続いた……そんな人的なつながりをうっすらと認識していた程度で、それこそ「なんとなく」でやってきたのであるが、この場所こそ、柳が民藝に開眼した現地であるとようやく気づくに至って、一気に見え方が変わった。
柳が引っ越してきた同じ年、浅川伯教が訪ねてきた。そのとき手土産として持参したのが、秋草手の染付面取壺(日本民藝館蔵)。民衆的藝術=民藝の語が生まれるのはもう少しあとの話であるものの、柳が民藝の美に目醒めたのはまさにこの瞬間、この土地を舞台にして起こったことなのであった。
さらにはバーナード・リーチが窯を築いたのも、濱田庄司が柳と出会ったのもここ。
そう考えると、そうかこんなところだったのかと感慨深いものがある。染付の淡い線でのびやかに描かれた秋草のイメージが、手賀沼のほとりで風に揺られる葦に重なった。(つづく)