最後の浮世絵師 月岡芳年展:3 /八王子市夢美術館
(承前)
「幕末明治に特有のどぎつい色遣い」にはかねてより抵抗があったが、芳年の「刺激的な色みを使いこなす繊細な仕事ぶり」に触れて認識を新たにした……とまあ、こういったことを、前々回の更新分で述べた。
今回は、このあたりの話題を掘り下げてみたい。
芳年の場合は、作品解説中の表現を借りれば、「色のコントロールが上手くできている」ということになる。
新奇で珍奇な色を、好奇心の赴くままにただ「使ってみる」ことじたいは、同時代のどの絵師にもできただろう。じっさい、これ見よがしにベタリと塗りたくったものも散見されるけれど、ここまでくると、むしろ色に「使われている」ありさまでまさに奇異、品性に欠ける。わたしがイメージしていた「幕末明治に特有のどぎつい色遣い」とは、粗製濫造のこのような作を指す。
これとは真逆に、暴れ馬のごとく鮮烈な色の魅力を殺さず、巧みにいなしてみせたのが芳年だったではと思われるのである。
芳年はどのように、いなしたのか。
それは、芳年一流の細緻な描写のなかに、これまた細緻に色を落としこんでいく手法によってなされたのだった。またそこには、人体表現の確かさも絡んでくるのではとも思われる。
《新形三十六怪撰 清姫日高川に蛇体と成る図》は、歌舞伎「京鹿子娘道成寺」にも描かれる「安珍・清姫伝説」の清姫。蛇の鱗を思わせる衣裳を身にまとった、執着と怨念に支配された女の姿である。
これでもかというくらいの細密描写である。
際立つのは、隣り合う色や文様の取り合わせに対する行き届いた配慮と、それを可能にするすぐれた色彩感覚であろう。女のおどろおどろしい激情をも代弁する色の力が、ここにはある。
着衣をこれほど緻密に表現しているというのに、全体に破綻がみられない点にも驚かされる。色や文様につい気をとられがちだが、文字通り描写の「骨格」となる人体の表現がおろそかになっていれば、どこかに破綻をきたした奇妙な絵になっていただろう。
同じ《新形三十六怪撰》のシリーズの《蒲生貞秀臣土岐元貞甲州猪鼻山魔王投倒図》も、すごい。
ぱっと見の一瞬ではどんな図か把握しづらいかもしれないが、それだけに、目を凝らして見れば見るほど、驚嘆のため息が出てくることだろう。
筋肉隆々の鎧武者が、仁王さまを投げ飛ばす! 阿弥陀さまもこの画中では悪役で、悪人面。やはり、このあと続いて投げ飛ばされるのだ。
正面に立つ武者の、パワフルなポージングが印象的。ケレン味が感じられるが、人体の動きとしては無理がなく、再現性のあるポーズだというのが興味深い。極端なデフォルメに走らず、リアリティのある人体描写におさめるのは芳年の特徴といえよう。
そういった人体描写や大鎧の細密描写の賜物か、鎧で固めていてもなお隠せない筋肉の盛り上がり、武者のガタイのよさを多分に感じ取ることができる。鎧が、しっかりと人間に「着られている」のがわかるのだ。
これに鮮やかな色彩が花を添えて、迫力と立体感を倍増させているのである。
色彩、細密表現、人体表現の相乗作用が、芳年の錦絵にはとくに強くみられる。このスパイラルの渦中にあっては、「どぎつい色遣い」が自由勝手に暴れまわることはできない。いなされ、コントロールされ、管理されてしまう。
これこそ、芳年の使った、きわめて手の込んだテクニックとでもいえようか。
この仕事に付き合わされる彫師や摺師は、ほんとうに大変だっただろうな……などと余計な心配をしてしまうのも、無理からぬこととご容赦いただきたい。(つづく)
※JR川崎駅直結の「川崎浮世絵ギャラリー」では、「月岡芳年 新形三十六怪撰」展が開催中