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版画の青春 小野忠重と版画運動:4 /町田市立国際版画美術館

承前

 藤牧義夫の作品が集中する一角から視線を移したすぐ隣が、また魅力的であった。3点とも畑野織蔵(はたの・おりぞう)という作家の作品だった。

 はたのおりぞう……「版画家としての名前かな?」と思ったくらいだが、そういうわけではないらしい。
 織蔵は、現在の相模原市内にあたる串川村の出身。山間部で、隣の八王子と同じく養蚕や製糸のさかんな土地柄であるから、ご両親としては、将来は優秀な機織りになってほしかったのかもしれない。
 名前の勘ぐりはこれくらいにして……織蔵の作品を観てみたい。《風景》(1936年頃)と《早春》(1936年)。いずれも新版画集団時代の作で、和歌山県立近代美術館の所蔵。同館のデータベースに画像が出ている(が、精細ではない)。
 どちらも鮮烈な色彩、色面は広く、かたちや線はアバウト。ゆえに、クレヨンで描いた児童画をみるようなほんわかさ、朴訥とした詩心を感じさせる。そのいっぽう、カンディンスキーなどドイツ表現主義の絵を思わせるところもある。

  《印象Ⅲ(コンサート)
  ヴァシリー・カンディンスキー
  1911年 レンバッハハウス美術館

 《風景》(1940年頃  小野忠重版画館)は造型版画協会時代の作で、黄色を大胆に使う点など、ドイツ表現主義っぽさはこちらのほうが強い。

 同じく造型版画協会時代の《晩秋》(和歌山県立近代美術館)は、一転して控えめな描写。深まる秋の侘しさが表されている。

 戦後の《緑の風景》(1949年  小野忠重版画館)は、これまでみてきた作品とはやや趣が異なるけども、やはり、童心にあふれた作品。よりメルヘンチックで、かわいらしい。

 青や緑のもわんとした幻想に、各種のモチーフが浮かび上がる……松本竣介の《街》(1938年  大川美術館)が思い出される(影響関係のほどは不明)。

 ※ポーラ美術館の《街》(1940年)も、すごくいい(脱線)


 ——畑野織蔵のように、本展で初めて存在を知った作家はとても多かった。
 そういった作家たちのプロフィールを読んでいくと、団体の解散、あるいは団体からの脱退後に、版画の制作をやめてしまった人が少なからずいることに気づいた。
 染織や金工の作家になった者。油彩で抽象画を描くようになった者。その後の経歴がまったく判明しておらず、没年不詳となっている者も(藤牧義夫の他にもう1人)いた。
 このうち「油彩で抽象画を描くようになった者」とは、宇治山哲平を指す。
 まずは出品作から、木版画の《小田ノ池》(1935年  小野忠重版画館)。ファミコンのポリゴン表現にも似た、ちょっと変わり種の風景画だ。

 版画から油彩に転じた哲平は、むしろ、後者の幾何学的な抽象作品によって、世に知られている。下図はその例《やまとごころ》(1986年  大分県立美術館)。

 こういった抽象画のイメージがあまりに強いものだから、上のような版画作品を前にして、見間違いや同姓同名すら疑ってしまうのであった。
 制作年には50年もの開きがあるにせよ、「版画の青春」から「抽象の晩年」への、このたいへんな振り切りようには、目をみはるものがあろう。

 ——歴史に “if” が許されないというのは、承知のうえで……
 もし、藤牧義夫が失踪を遂げず、長命を保っていたら、宇治山哲平のように版画にとどまらず、まったく異なる道を選びとる未来もあったのかもしれない。「若い一時期、版画を制作していたこともあった」といった語られ方である。その可能性をなにより雄弁に物語るのが、版画ではない肉筆の大作《隅田川絵巻》だろう。
 いっぽうで、畑野織蔵のように、みずからの小さな世界を守りつつ、少年の詩魂を少しずつ育んでいった版画家もいる。
 義夫は、どちらであったろうか。こればかりは想像の域を超えられず、なんともいえないのが、やはり、悔しい。
 造型版画協会の作品が並ぶ、義夫が不在の本展最後の展示室をまわりながら、そんなことを思うのであった。


ハナミズキの花



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