つくりかけの塔、こわれかけた塔 ~古建築の転用について:2
(承前)
【4】 長寿寺(神奈川県鎌倉市)
円覚寺、建長寺、明月院、東慶寺……北鎌倉から鶴岡八幡宮の裏へ抜ける通り沿いは、巡礼者にとって、さながら “古寺銀座”。
広く参拝客にひらかれた大寺の多いこの並びに、通常非公開の古刹・長寿寺はある。かの足利尊氏の菩提を弔う寺で、墓石も立つ。
境内の観音堂は、奈良の円成寺(えんじょうじ)から大正9年(1920)に移築された多宝塔の初層で、室町時代の建立。
※参拝時の写真が出てこないので、こちらのページをご紹介。
現・観音堂がもとあった奈良の円成寺は、東大寺や春日大社の背後にある春日山原始林の、そのまた向こう側に位置している。わたしはこれまでに2度、うかがったことがある。
1度めは円成寺からスタートして滝坂の道を伝い、原始林を抜けて百毫寺・高畑町界隈に遊んだ。石仏の名品をたどるルートである。
2度めもやはり円成寺を起点にして逆方向・柳生街道を歩き、古社寺や古墳を訪ねつつ剣豪の里・柳生に至った。
どちらも、うだるような暑さの日だった。
近鉄奈良駅からバスに乗り、東大寺の伽藍の西北をぐるりとまわって坂を登っていく。下りにさしかかった頃、「忍辱山(にんにくせん)」という難読地名がコールされる。円成寺の山号が、そのまま最寄りのバス停の名前になっているのだ。
バス停から徒歩数秒で境内に達すると、広大な浄土庭園の苑池や築山が眼前に広がると同時に、ひんやりとした冷気が足もとに忍び寄ってきた。暑さがやわらぐ。これから霊域に入るのだと、感覚が教えてくれた。
円成寺といえば、運慶最初の傑作《大日如来坐像》(国宝)で知られている。
若さみなぎる、清新この上ないみほとけ。いい意味で抹香くささを感じない、青年のようなお像である。運慶、20代の作。
この大日さんは、室町から大正までずっと、いま鎌倉にある旧・多宝塔の1階にいらっしゃったのだ。
円成寺の多宝塔は、後白河法皇が寄進した初代、その焼失後に建立の旧・多宝塔を経て、平成に入ってから3代めの現・多宝塔が再建された。
最初の訪問時、大日さんは現・多宝塔のなかにおわした。覗き穴のようなところから、必死こいて観たものだ。
2度めに訪れた際には、相應殿(そうおうでん)という展示施設が新たに竣工、そのなかに移されていて、お顔・全身ともよく拝見できるようになっていた。
防犯の面でもこちらのほうが都合がよさそうだが、多宝塔の1階を守る姿にもまた、見捨てがたきものがあろう。
大日さんから受ける爽やかさと、浄土庭園で感じた冷ややかさとは、わたしのなかで一脈通じるところがあって、円成寺での思い出をよりよいものとしている。新緑の季節や夏のあいだの巡礼を、全力でおすすめしたい。
鎌倉の長寿寺は、春秋の週末と祝日にのみ公開中。「通常非公開」とはいっても、割にチャンスはあるほうだ。
旧・多宝塔の内陣に、あの大日さんが鎮座する……そのさまを観想しに、北鎌倉へまたうかがいたいものだ。
——途中からほとんど奈良の話になってしまったが、全国には他にもいくつかの「こわれかけた塔」が、かろうじて命脈を保っている。いずれも、現地では未確認。駆け足でご紹介する。
【5】 安楽寺大日堂(奈良県御所市):鎌倉後期の三重塔初層。重文。
【6】 法隆寺羅漢堂(奈良県斑鳩町):平安中期の三重塔初層。重文。もと同県内の富貴寺にあったもので、解体部材を細川護立が保管、法隆寺に寄贈・再建。
【7】 明眼院旧多宝塔(愛知県あま市):江戸初期の多宝塔初層。登録有形文化財。
【8】 聖寿寺千体地蔵堂(岩手県盛岡市):文化5年(1808)築の五重塔初層。
次回は「番外編」として、塔の話をもうちょっとだけ続けるとしたい。(つづく)