TECHNICOLOR'S 吉野石膏コレクション展:3 /表参道ヒルズ
(承前)
展示の後半は、一転して日本の絵画。
北斎と、大観、清方、松園、劉生、佐伯、小磯らの大雑把な近代美術を並べた「SECTION 04」、東山、杉山、平山の「SECTION 05」。
現代日本画まで、時間が巻き戻った。こんな具合か、さてと会場を後にしようとしたところ……もうひと部屋、まだ残っていたのである。
章扉によると、大トリの「SECTION 06」では「新収蔵品の髙山辰雄《朝》《銀河》を展示」という。髙山辰雄は、現代日本画では別格。すきな作家だ。
大いに期待をもって足を踏み入れたところ……すぐさま、その場に立ちどまることとなってしまった。
《朝》に、やられたのだ。
《朝》は、六曲一双の金屏風。
向かって右隻には、野辺に横たわり、膝を抱えて眠りこける女性ふたり。左隻には黄金の日輪と陽光を受けて輝く川面、そして、沐浴を終えたのだろうか、河畔で髪を梳る女性が描かれる。
眠りと目覚め。右から左へと緩やかに、悠久の時間が経過する。異時同図的な意図もあったかもしれない。
図版で伝わりづらいのがほんとうに歯がゆいのだが、この画面のどこを切り取っても、美しい。
その基盤をなすのはやはり金地で、闇夜の薄暗さも、赤茶けた土も、野辺や木々の緑青も、すべてが朝の陽光の金に受けとめられ、後押しされ、膨らみをもってこちらに迫ってくるようだった。緑青や茶の一部には金泥が薄く上塗りされていて、その効果を補助している。
こうした金と緑青の装飾性の拮抗、また象徴的な日輪の表現は、《日月山水図屏風》(国宝、大阪・金剛寺)のような室町のやまと絵屏風の系譜に連なる気配を漂わせている。
もったりと、とろけそうな土坡の起伏の描きぶりなどからは、琳派の影響が感じられる。湾曲した川の流れ、川面のさざ波には光琳《紅白梅図屏風》への意識が垣間見られた。
このように、日本絵画の伝統的な空間意識や装飾性にのっとっている本作だが、それ以上に……ゴーギャン、そのものだ。
わたしの第一印象も、じつはゴーギャンのほうだった。
同時に、先ほどゴーギャン(本人)の《カリブの女》にあれほど魅せられたのも、ゆえあること……そうだ、ゴーギャンに心酔した高山辰雄という日本画家が、わたしのなかに先にいたからだったのだと気づかされたのだ。だから、立ち尽くしてしまったというのもある。
自然と融和する人間の姿。
否、本来、自然の一部として生まれ、やがて土に還っていく人間という存在のありようを、鈍く穏やかな色調で描きだしてみせる。
髙山の《朝》は、ゴーギャンの高次の日本的解釈であり、この作家らしい深い精神性をたたえた大傑作と感じたのだった。
《朝》に出合って気持ちがわっと高揚し、そのあと、力が抜けてしまった。あとは寄っては引き、引いては寄って、あちらを観察、こちらを熟視して……長い時間をこの作品の前で過ごしたのだった。
モネに導かれてやってきたこの展覧会だったが、この1点だけでもお腹いっぱいというくらい。や、ほんとうによいご縁だったと思う。
あとから調べると、《朝》は世田谷美術館の「人間・髙山辰雄展――森羅万象への道」(2018年)では、冒頭に展示されていたとのこと。図録にも大きく掲載されている(リンク先に、展示風景の写真がちょうどある)。
――次はいつ観られるだろうか。
吉野石膏コレクションの日本画は天童市美術館に寄託されている。
天童といえば、出羽桜美術館。出羽桜で李朝のやきものが出る時期に、《朝》の展示も重なってくれる……なんてことはないだろうか。
期待して待つとしたい。