ことしの祇園祭:2
(承前)
不動の一番・長刀鉾(なぎなたほこ)を皮切りに、前祭では全部で23の山鉾が、京の街を進んでいく。
平安時代の貞観11年(869)、神泉苑に祇園社の神輿を迎えて厄災を払ったことが、祇園祭の起源とされている。
この折、神泉苑に立てられた66本の巨大な矛(ほこ)が山鉾の由来。66とは、当時の国の数であった。京の地で、全国津々浦々の安寧を祈ったわけだ。
現在、山鉾の数は34基。もし66基あって、しかも、それぞれの国が山鉾に割り当てられていたとすれば、ご当地の山鉾の登場時にはさぞテンションが上がるのだろう。甲子園やオリンピックの開会式での、プラカードを掲げた選手入場に近いか。
宮城産のわたしとしては、「陸奥国がんばれ!」と声をかけてみたい……山鉾の名が書かれた幟(のぼり)を見て、そんなしょうもない想像をするのであった。
山鉾は町ごとに属しており、長刀鉾ならば「長刀鉾町」など、そのまま地名として定着している例も多い。
代々その町内で暮らし、巡行に関わってきた方々にとって、山鉾はアイデンティティそのものだろう。陸奥国どころの話ではない。
巡行中、ご近所さんや血縁と思しき人が沿道から声をかけたり、休憩時に列から人がやってきて立ち話をはじめるといった場面を何度か見た。「これが現代の町衆!」と無駄に恐縮すると同時に、彼らやそのご先祖様たちが、この祭を守り継いできたのだなと感慨にふけるのであった。
もっとも、山鉾町に生まれなくとも、山鉾へ結縁できる方法はなくはない。祇園祭に際して頒布される厄除け「粽(ちまき)」によってである。
粽は山鉾ごとにデザイン、ご利益までが異なり、高い人気となっている。
玄関先に粽を掲げる光景が、京都の街では一年を通してみられる。この時期に街を歩くと、軒先の粽が真新しく取り替えられていて、夏のさかりを感じさせるものだ。
このようにして「うちは毎年ここの粽」と決め、日常のなかで祀っていれば、山鉾への連帯は強まっていくのだろう。
粽の売り上げはそのまま山鉾の維持費となるし、手ぬぐいや扇子、Tシャツなど、粽以外のオリジナルグッズを用意しているところも。いまふうにいえば「山鉾の推し活」が可能になっているともいえよう。
今回、わたしがひと目で魅かれたのは「菊水鉾(きくすいほこ)」。
唐破風の屋根をもつ唯一の山鉾で、華麗でありながら、豪壮というよりは品よくまとまっているところが琴線に触れた。
来年の宵山では、菊水鉾の会所に寄ってみるとしたい。(つづく)
※祇園祭の歴史がはじまる貞観年間には富士山や阿蘇山が噴火、東国では貞観地震が起こった。東日本大震災は「1000年に1度」ともいわれたが、その「前回」の例としてよく引き合いに出された、あの貞観地震である。
※昨年・後祭のレポート。全4回(記事の最後に次回リンクがあります)