ぶらり、唐招提寺:1
「お宅はいずこ?」と問われたとき、最寄りの至極マイナーな駅の名を伝えるよりも、「唐招提寺の近く」と答えたほうが、よほど通りがよいことに気がついた。
わたしの部屋からは、唐招提寺の鬱蒼とした森を望むことができる。歩けば5分、いや、ものの数分で、境内の域に達する。それくらい近い。
ある朝、燃やすごみを出して、そのままふらっと散歩に出てしまおうと思い立った。唐招提寺まで、恐れ多くもサンダル履きで、転入のごあいさつ。
唐招提寺に来るのは、3度めになる。最初は薬師寺(=南側)から、前回は喜光寺・垂仁天皇陵(=北西側)から向かっており、今回の北東側から回るルートは初。真北からは入れないので、これで伽藍を全方位から把握できたことになる。
北東のルートをとることで、初めて訪れたのが水鏡天神社。寺域の東南端を守ってきた、唐招提寺の鎮守社である。
鳥居の先、表参道は寺の境内につながっているものの、通行止め。お寺からお社にそのままお詣りできないようになっているため、地元の人以外は、お社にはなかなか訪れないだろう。神仏分離の名残は、こんなところにも残っている。
鑑真和上が唐からの渡航のさなか、龍神に危機を救われることがあり、その龍神を祀っているのだとか、菅原道真が太宰府に赴くにあたり、この地に立ち寄って井戸に姿を映したために「水鏡」というのだといった逸話が、この社には伝わっている。
道真に関しては、平安京から太宰府へ向かうのに方角がまるで違うけれど、菅原氏代々の本拠地が唐招提寺の比較的近く、(先ほど登場した)喜光寺のあたりである点を踏まえると無理はない。少なくとも、道真伝説が生じ、受け継がれやすい範囲内だとはいえるのだろう。わたしがそうしたように、喜光寺から唐招提寺のあたりまでは、充分に徒歩で行ける圏内である。
はからずも搦手(からめて)から入る形になってしまったが、唐招提寺の正式な入り口は、南方向中央のこちら側。観光バスを停める大駐車場を背に、下の写真を撮っている。この光景に見覚えのある方も多いのでは。
南大門からは、キャッシュレスで入場できるようになっていた。その一点を除けば、あとはなにも変わらない境内。
「変わらない」……そうあってくれることこそが奈良の価値だなぁと、漠然と思っている。
けれども、それはわたしの見える範囲内での話。長い歴史のなかで、唐招提寺は多かれ少なかれ、変化を遂げてきた。
たとえば、唐招提寺を象徴する下のアングル。南大門の向こうに広がる光景だ。
「教科書で見たあの景色!」と、参拝者の心をがっちりつかみ、道の先にある金堂(奈良時代・8世紀 国宝)へと引き寄せる。仮に、門前で拝観するか否か迷っている人がいたとしても、南大門の外からこの光景を覗き見れば、自然に吸い寄せられていくだろう。
森林の奥に佇む、列柱と甍(いらか)——これはもはや唐招提寺のステレオタイプとすらいえるけれど、明治のある時期まで、左右に広がるのは森林ではなく、田んぼだったのだという。
そのさまは、森のなかに立てられた松瀬青々の句碑によって偲ぶことができる。
森林を田んぼに置き換えれば、印象はがらりと変わってしまうわけだが、さらに時空をさかのぼると……創建当時は道の途中にもうひとつ門(中門)が立っており、その左右に回廊が接続、それぞれがL字に折れて、金堂の左右までつながっていた。
肉眼では見えない、しかし、まったく同じこの場所で起こってきたあれやこれやに、想いを馳せる。その振れ幅が大きくとも、はたまたまったく変わらずとも、いだく感懐は負けず劣らず、深い。
史跡を訪ねる楽しみ、奈良を巡る喜びは、こういった体験のなかにこそあるのだろう。(つづく)