顕神の夢 ー幻視の表現者ー:1 /川崎市岡本太郎美術館
このタイトルから、展覧会の内容をおおまかにでも想像できるという人は、おそらくいないのではなかろうか。
もちろん、そんなことはとっくに織り込み済みで、相当な覚悟をもってこのタイトルが採用されたはずだ。それに、タイトルですべてを言い表す必要もあるまい。
では、リーフレットの裏を返して、展覧会の概要を読んでみると……これまた、わかるような、わからないような。
その場で、考えこんだ。
しかし、である。
その得体の知れないものを追いかけさせる、探求へと駆り立てるなにかが、本展のタイトルや展覧会そのものにあるのだともいえよう。
興味がなければ、リーフレットを手にとりすらしない。手にとったリーフレットの内容が、過去の経験や知識に照らしてすんなり理解できるものであれば、「なるほどそんな感じね」と、リーフレットをそっと戻すこともあろう。
その点、わたしはリーフレットを手に、考えこんでいた。持ち帰った。会場へ向かいもした。
企画者の掌の上で、みごとに踊らされていたのである。
本展には、まさにそういった——「よくわからないけれど気になる」作品が集められている。平たくいえば神秘的で、ときに妖しく、おどろおどろしい作品が会場には並ぶ。
これらの作品は、実体のないなにかに触発され、その具現化に心を砕いた末に生み出されたもの。副題にある「幻視の表現者」が意味するとおりである。
じつはもうひとつ、副題がある。
……これによって、ようやっと具体性を帯びてきた。
村山槐多、関根正二。ともに大正期のごく短い期間に活動し、20歳前後で儚く散った鬼才。作風は違えど、憑かれたように、命を燃やして絵を描いた。このふたりの名前が出たところで、どんな展示か、おぼろげながら輪郭がつかめる。
この副題からわかるように、出品作家は日本近現代の物故作家から、現在活動中の作家までを含む。古いところでは円空、出口なおといった近世の人物もいるが、あとは大正期以降の画家・彫刻家たちの作品で構成されている。
全体を回顧してみても、展示の冒頭「見神者たち」のインパクトが、なんといっても強かった。
いまさっき、大本教の教祖・出口なおの名前がいきなり出てきて驚かれたと思うが、わたしも会場で大いに驚かされた。
ひらがなで走り書きされた、古いお習字のようなもの。文字の配置は、見慣れた規則性とは少しく異なっている。
キャプションには《お筆先(ふでさき)》とあった。出口なおが、神がかりのトランス状態で筆を走らせ大量に残したという、あの「おふでさき」である。話には聞くが、おふでさきを見るのはこれが初めてだった。
無心で、書く——そのすごみに、身がこわばるのを感じた。
思わず後ずさりをするとともに、これは大変な展示に来てしまったな、気合いを入れ直さないとなという思いがするのであった。(つづく)
※《お筆先》の所蔵者にして本展の監修者である宗教学者・鎌田東二氏のページ。中ほどに、《お筆先》の画像がある。出口王仁三郎など、この章の他の出品作の画像も。