赤星鉄馬「消えた富豪」の「消えなかった邸宅」へ :2
(承前)
旧赤星鉄馬邸は、JR中央線の吉祥寺駅から北西へ徒歩15分ほど、成蹊大学の目と鼻の先のところにある。
なんでも、成蹊学園の教育理念に賛同した鉄馬が、子どもたちを通わせるべくこの地を選んだのだという。
学園のパトロン・岩崎小彌太と鉄馬とは昵懇であった。鉄馬がもともと住んでいた麻布鳥居坂の地所は小彌太が取得し、本邸を築いている(現・国際文化会館)。
当時、吉祥寺界隈までは開発が及んでおらず、この邸宅は片田舎に営まれた「カントリー・ハウス」といった趣だった。鉄馬の趣味は乗馬。愛馬に跨って、存分に武蔵野を駆けたことだろう。
原野や田んぼ、畑に代わって、現在は戸建ての住宅が広がる。小刻みに分割された宅地のなか、ひときわ大きな区画が旧赤星鉄馬邸。その長いコンクリート塀に沿って、大行列ができていた。まさか、これほどの盛況とは!
若くして渡米し、乗馬に魚釣り、ゴルフをたしなんだ鉄馬には、父・弥之助とは異なり、茶の湯の趣味がなかった。父没後のコレクションの売立から、17年の歳月を経てもいる。
光にあふれた、垢抜けた生活空間となっているこのモダニズムの邸宅は、現当主にして施主であった鉄馬のカラーが全面に出たものなのだろう。
鉄馬が唯一親しんだ古美術は、刀剣であった。武士の血やその子孫たる誇りは、アメリカ帰りの鉄馬にも残っていたのだ。
評伝『赤星鉄馬 消えた富豪』には、気がかりな記述がある。
この2口の太刀は、それぞれ昭和10年と11年に国宝となっていたようである。
ということは、あくまで戦前の「旧国宝」。現在の国宝とイコールの場合もあるが、そうではない可能性のほうが高い。
調べてみると、現在は「銘国行」が個人蔵、「銘国光」が静嘉堂文庫美術館蔵で、ともに重文指定となっていた。
ともかく、この吉祥寺の邸宅に、重文の2口をはじめとする名刀が、あまた保管されていたようである。
鉄馬が、抜き身の名刀をじっとながめたり、ポンポンと手入れしたりといった光景が、往時のこの家では日常的にみられたことだろう。
ひょっとすると、書斎の両面からの採光は、刀剣の鑑賞を前提としたものなのかもしれない。(つづく)