フランソワ・ポンポン展 〜動物を愛した彫刻家〜:3 /佐倉市立美術館
(承前)
単純な形態によって表された、ポンポンの動物たち。その顔つきや脚先に目を遣ると、思いのほか繊細につくりこまれていることに気づく。
いわばポンポンの彫刻は、抽象と写実が一所に同居する「合いの子」。過渡期的な性格と言い換えることもできよう。
ポンポンと同じくロダンの助手を務めた経歴をもつ彫刻家に、コンスタンティン・ブランクーシがいる。
写実を捨てなかったポンポンに対して、ブランクーシは写実から完全に抜けきり、さらなる単純化・抽象化へと突き抜けた。ポンポンの表現しようとしたものが「いまにも動きそうなもの」(《錦鶏》)だとすれば、ブランクーシのそれは「動きそのもの」(《空間の鳥》)。モダン・アートへとつながる扉は、ブランクーシのほうにあった。
ブランクーシの作は日本国内の複数の美術館に収蔵されているけれど、ポンポンの作は、ほぼ館林でしかみられない。
ブランクーシは、美術史上に確固たる位置を占めている。後発の美術館が、近現代美術のメインストリームを大まかにでも素描できるコレクションを築こうとしたとき、その重要なピースとして必要とされることは多かったのだろう。
ポンポンの純化された都市的な造形美は、アール・デコの潮流につらなるものだ。じっさい、ポンポンが表舞台にたちまち姿を現してから亡くなるまでの時期は、アール・デコの全盛期にすっぽり重なっている。それは同時に、アール・デコの急速な収束とともに、ポンポンも「過去の人」となってしまったことを意味する。
日本にポンポンがないことは、こういった背景と無縁ではないと思われる。
しかし、アール・デコの一様態、彫刻史の系譜のうちの一名などとしてではなく、ひとりの作家としてのポンポンにスポットライトを存分に当て、純粋な鑑賞の俎上に載せてみると……なんとも、いいものであることがわかる。現にこうして、多くの来場者を魅了し、笑顔にしているではないか。
網から洩れた存在のなかにも、まだまだいい作家や作品はある。
美術史という悠久の大河にあまり流されすぎずに、アンテナを高くもって、ものを観ていきたいもの……改めて、そんなふうに思ったのだった。
※それでも……できるならば、「アール・デコの館」こと東京都庭園美術館でポンポンが観てみたかった……
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