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【ショートショート】音のない部屋

 その部屋に引っ越してきたのは、なんてことのない月曜日のことだった。私は日々の生活に少しでも変化をもたらそうと、新しいマンションに移ることにした。新居は古びた雰囲気があるものの、特に問題はなく、間取りも静かで落ち着いた感じが気に入っていた。

最初の夜、荷物の片付けを終えて床に就こうとしたとき、妙な違和感があった。部屋の中が異常に静かだったのだ。どこからも音が聞こえない。普通なら外の車の音や近隣の生活音が少しは聞こえるものだが、この部屋ではそうした音が一切消えていた。

「静かでいいじゃない」と最初は気にも留めず、眠りについたが、その静寂は次第に不安を呼び起こすものに変わっていった。

数日が経ち、仕事から帰宅するたびに、私はこの異様な静けさに胸がざわつくのを感じ始めた。部屋に足を踏み入れると、外界から切り離されるような感覚に襲われた。まるで、私が部屋に入る瞬間、全ての音が消し去られるようだった。

ある夜、寝る前に鏡の前に立ったとき、不意に背後に誰かの気配を感じた。振り返っても、誰もいない。しかし、その感覚は消えない。まるで何かが部屋に潜んでいて、私を見ているようだった。その夜は不安で眠れなかった。

次の日、仕事で疲れて帰宅した私は、リビングに座って一息つこうとしたが、その瞬間、耳元で微かに何かが囁いたように感じた。音は聞こえないのに、その気配だけが確かにあった。

「誰かいる…?」

私は恐る恐る周りを見渡したが、部屋はただ静かに存在しているだけだった。自分が疲れているせいだと思い込もうとしたが、心の中の不安は膨らむばかりだった。

その夜、再び寝室の鏡に向かったとき、背後に黒い影のようなものが映っているのが見えた。それは私と同じ姿をしているが、何かが違う。その顔には表情がなく、ただ私を見つめていた。私の背筋が凍りつき、恐怖で動けなくなった。

「これは…私なのか?」

鏡の中の影は、まるで私を嘲笑うかのように、静かに微笑みを浮かべた。そして、その口が動いた。しかし、そこから音は何も発せられない。ただ無音のまま、何かを伝えようとしているようだった。

その瞬間、私は理解した。この部屋にいる「何か」は、私自身の心の中にあるものだ。これまで見ないふりをしてきた恐怖や孤独、そして抑圧された感情が、この部屋に現れていたのだ。音のない部屋は、私の中の声を反映していた。全ての音が消え去り、残ったのは、自分の中の最も暗い部分だけだった。

「出なければ…ここから出ないと…」

私は震える手で荷物をまとめ、部屋を出ようとした。しかし、ドアに手をかけた瞬間、背後から再び冷たい気配が迫ってくるのを感じた。振り向くと、影が私に向かって伸びてきていた。その目は何も語らないが、ただ私を飲み込もうとしているのが分かった。

「逃げられない…」

恐怖で体が動かないまま、影は私に触れようとしていた。その瞬間、私は全てを拒絶するように叫んだ。しかし、その叫び声すら音にはならず、ただ静寂が広がるだけだった。

翌朝、私は目を覚ました。部屋は相変わらずの静けさに包まれていた。全てが悪夢であったかのように感じたが、鏡の中に映る自分の顔はどこか違っていた。疲れ切った目、そしてどこかで見た冷たい笑みが浮かんでいた。

「もう、逃げられない…」

音のない部屋は、私の中の恐怖と絶望を映し続けていた。そして、私はその静寂の中で、少しずつ自分を失っていく感覚に囚われ続けることになったのだった。

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