
昔あそびとわらべうた
人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。
ありのままを承認されるということは、子どもにとっては、このままでいいのだという安心感、すなわち、自信になるのです。
人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることが大事なのです。
娘がもう1歳になりました。
母になって1年経ったことに驚きです。
変わらず園のしごともあり、週の半分は仕事場に娘と泊まる2拠点生活をしております。
そんな日々の中で最近私を癒やしてくれているのがわらべうた。
娘と2人きり、向かい合える時間を作っては口ずさみながら手遊びをしています。
童謡や最近の歌にはない、平坦なリズムと音数の少なさ。
これぞ日本人…と味わいながら唄えます😁
そしてわらべうたには小道具が必要なので(自論)お手玉作りにもハマりました。
ポケットをつけると何故かナナメになるという、お裁縫が苦手な私にもできるくらい難しくないんです。
〜四合せ(幸せ)お手玉のつくりかた〜
・9cm × 4.5cmのハギレ4枚
・針と糸
・小豆(レンジでチンすると虫食い予防・長持ちするそう)
裏返して縫っていき、表に返すとお手玉になります

わらべうたを娘に唄うとき、
娘はじっ…と私の顔を見つめます。
急に抱きついてきて余儀なく中断させられることもあるけど、なんのその、と唄います。
一生懸命作ったお手玉を床にバシッと投げられたのは衝撃でした。
遊んでもらえた!という喜びと、もっと大事にしないと壊れる…という戸惑いと。(とかく不器用は物はすぐ壊れる物と思っている)
そんな母の心の揺れを尻目に、娘は奔放に心のおもむくまま次の遊びに入ってゆきます。
なんと非情…ヨヨヨと泣きたくなる時もありますが、それが自然なのです。
子どもは父母を踏み台にして新しい世界へ飛んでいくのです。
「ありのまま」が受容されたら、今度は
なぜ生きるのか?と問えるようになります。
そこには自分も他人も境界のない世界、自我を必要としない世界があるように私は思うのです。
またイメージで喋りだしたよ…と思われたかもしれませんが、自我の話はシモーヌ・ヴェイユの思想を交えながら話したい!(またいづれ)
すでに母親はこの世界に片足突っ込んでる存在なのではないか、と感じます。
子どもを愛し、尽くしてるうちに、子どもとの境界を見つけるのは中々どうして難しくなる。
だか恐れるものはない、踏み入れた存在であるしその分、綱渡りなところもあります。
そんなときに客観的に向き合ってくれるのが、友人だったりパパやきょうだい家族だったりするのかなぁ。
というわけで長くなりましたが「子どもへのまなざし」、さらにその先へ。があるという話がしたかったのです。