お話の「ちから」
物語の効用
ストーリーテリング、語っていて、時々、その癒しの力について尋ねられたり、その事に触れている記事を目にしたりします。
童話研究の小澤俊夫氏もお話に触れることはとても良いことだ(かなり意訳)とお話しになっていますし、読み聞かせなどが情操教育に良いのは良く知られています。
また最近では大人の為に絵本セラピーというものあり、亭主もかなり昔ですが、一度、絵本セラピストの方と一緒に会を開いたことがあります。
僕はセラピストでも、まして心のお医者様でもないので、詳しいことは分かりませんが、形式は様々ですが、お話に触れるというのは、とても意味があると思っています。
お薬よりも深く
以前、お手伝いしていた会社で、長く母子の為のマッサージをされていた女性がいました。とてもしなやかで、それでして芯の強い方でした。
そんな彼女が、何かの折に
「お話って、お薬みたいに『ここ』って決め打ちには出来ないけれど、深く深く届くものなのよ」
と仰ってました。
癒しという言葉を飾りではなく、真摯に向き合っている彼女の言葉は、語りをはじめる前でしたが、とても響きました。今でもその通りだと思います。
その上で効果効用を手放す
亭主が語っているお話は、いわゆる民話、伝承の類いで、少なくとも百年くらいは語り継がれているものばかりです。
それだけ人の口に上り、磨かれてきた物語。
それらには面白みはもちろん、きっと癒しなり、なんなりの作用があると思います。
お話を語っていて、場が変わる瞬間と言いますか、なにか魔法的な力が満ちてゆくなと感じるこことは多々あります。
けれど。
それを当てにしようとは思ったことはあまり有りません。
なぜなら、お話は存在する時点で、そういった作用をすべて内包し、面白く、愉快に、なにより心が響くように「在る」んだと思っているからです。
語り手は、ただお話の運び手で良い。
語り口や雰囲気は、その都度その都度で変わるし、なにより語り手によって変化するのが語りの妙味。瞬間芸術と言われる所以です。
お話を語り手というフィルターを通して伝えるだけ。
そういう作用が起こるか起こらないか、それは語り手の手の届かないところにある、そう思うのです。
※トップ画像はアイルランドで行われているストーリーテリングの一コマ
狐弾亭の1冊
アメリカで図書館で行われているストーリーテリングに多大な貢献をしたルースソーヤー女史の、ストーリーテリングとはなにか? を追求した本です。いわゆるHOW TO本とは異なり、物語との向き合い方、語り手として考えるべき事などが、様々な事例、経験を交えて綴られています。
教育の現場としての語りは、アイルランドなどで続けられている伝統的な語りとは、少し毛色が違いますが、それでも得るものも多く、語り手のみならず、物語と関わる人に読んで頂けたらと思う1冊です。
狐弾亭の書棚にもありますので、開店、お越しの際には是非。
狐弾亭亭主・高畑吉男🦊
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