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ウチナーンチュの記憶 兵庫のリトル沖縄「尼崎・戸ノ内地区」

 沖縄県が本土復帰してから5月15日で50年を迎えます。沖縄と兵庫のつながりをさかのぼれば、神戸市須磨区出身で、太平洋戦争末期の沖縄県官選知事・島田叡(あきら)が有名ですが、それ以前の昭和初期(1930年代)ごろから、沖縄の人たちは出稼ぎのために尼崎市や神戸市などに住むようになりました。沖縄県が本土復帰した1972年、沖縄と兵庫は「友愛協定」を締結しました。1975年には兵庫県民の募金で那覇市に「友愛スポーツセンター」(現在は閉鎖)が建設されるなど、長年交流が続けられています。現在も2世、3世が多く在住し、沖縄県人会兵庫県支部(尼崎市)は、全国屈指の沖縄県人会として知られます。

 こんにちはド・ローカルです。久々の投稿です。沖縄県の本土復帰50年が近づき、ぜひ読んでいただきたい連載企画があり、筆を執りました。

 私がかつて勤務していた阪神総局時代に手掛けた連載、その名も「アマ(尼崎)とシマ(沖縄)」です。兵庫の〝リトル沖縄〟と呼んでも過言ではない尼崎市戸ノ内地区を舞台にしたものです。少し長文となりますが、50年の節目にお付き合いください。

「アマとシマ」  ①原点

尼崎市戸ノ内地区の航空写真

 夜のとばりが〝シマ〟を包む。時折、吹き寄せる秋風が静かに頬(ほお)をなでる。白の襦袢(じゅばん)に黄と黒の袢纏(はんてん)、赤や紫の頭巾(ずきん)姿の若者数十人が、モスリン大橋近くの沖縄県人会兵庫県本部園田会館(尼崎市戸ノ内町5)に集まった。
 午後7時。「ドーンドン」とパーランクー(太鼓)が響き、「ピューイピューイ」と指笛が鳴る。トラックのスピーカーから流れるテンポの速い音楽に合わせ、一糸乱れぬ勇壮な踊りを刻んでいく。
 尼崎生まれの沖縄3世などがつくる舞踊グループ「琉鼓会」。毎年、旧盆近くのこの時期、沖縄の伝統芸能・エイサーを踊りながら地域をめぐる「道ジュネー」を繰り広げる。普段は静かなこの町が年に一度にぎやかになる日。尼崎市内外から人が集まり、戸ノ内のウチナーンチュ(沖縄の人)も、道ジュネーの後に続いたり、沿道からエールを送ったり。踊る者、見る者の心をかき立て、故郷への思いを一つにする。

 猪名川、神崎川の合流地点に位置し、三方を川で囲まれた「戸ノ内」。航空写真からは、まるで靴下のような形をした〝シマ〟に映る。この町に架かる三つの橋のいずれかを渡らなければ入れない。その一つ、大阪との府県境、神崎川に架かる「モスリン大橋」は、戦前~戦後、海を渡り、この町を目指したウチナーンチュたちの新天地への架け橋だった。
 「ここに榕樹(ようじゅ)あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史」には、沖縄本島北部の本部村(現本部町)から出稼ぎに出てきた男性が大阪を経て、この中州の南先端部河川敷(現戸ノ内町4、5丁目)に移り住んだことが始まりとの記述がある。時期は1930年ごろ。その後、家族や親戚を頼り、移住者は増え、島から本土に渡ったウチナーンチュは、尼崎の〝シマ〟に根を広げていった。
 橋の名に残るモスリンは、戦前に戸ノ内にあった巨大紡績工場「毛斯綸(もすりん)紡織」に由来する。戦中に軍需工場に変わり、空襲で焼失した。大阪、兵庫の境界、そして多くの移住者が住むこの町は、戦後、さまざまなものを受け入れてきた。「神崎新地」など遊郭街も現れ、盛り場としてもにぎわった。

 沿道で道ジュネーを見つめていた喫茶店「ロング」(戸ノ内町3)を営む玉城幸子は、若者たちの熱い踊りに、自身の幼き頃を重ねていた。
 戸ノ内に沖縄人集落ができはじめた頃、移住してきた両親の10番目の子として生まれた。沖縄芝居や民謡を周囲の大人に教えてもらい、民族衣装に身を包み、兄弟や近所の子どもたちと家々を回ったことを覚えている。
 同時に河川敷で「炭焼き」を生業としていた両親の姿も忘れられない。(敬称略)

 戸ノ内地区は、兵庫の東端、大阪府との府県境にあります。原稿にもありますが、猪名川、神崎川の合流地点に位置し、三方を川で囲まれ、まるで靴下のような形をした〝シマ〟にも見えます。少し古い数字ですが、沖縄県人会兵庫県本部には1344世帯、4019人(2015年4月現在)が登録しています。14支部のうち9支部が尼崎市内にあり、883世帯、2622人と全体の約7割を占めます。

「アマとシマ」  ②沖縄村

(上)(中)は戸ノ内地区の街並み。(下)は戦後まもなく撮影された住民らの集合写真

 尼崎市戸ノ内町3で喫茶店「ロング」を営む玉城幸子は、戦後まもない頃に撮った1枚の写真を大切に保管する。
 「最前列の左から3番目が私なんです」
 沖縄の民族衣装をまとい、左手にかごを持つ少女をそっと指差す。近所の子どもたちと戸ノ内の家々を回った後に写した集合写真。今も続く「道ジュネー」と似た同地区の行事で、つらく、厳しい日常を忘れさせてくれる至福の時間(とき)でもあった。

 玉城一家が移住してきたのは、昭和初期の1930年代。ウチナーンチュ(沖縄の人)が、戸ノ内に数十軒ほどの集落を築き始めた頃だった。玉城は10人兄姉の末っ子として生まれた。両親は、神崎川の河川敷に大きな窯を作り、解体した廃船の木材や流木をくべ、炭を作って生計を立てていた。
 尼崎市の東端に位置し、三方を川で囲まれた戸ノ内は、時に〝陸の孤島〟と揶揄(やゆ)された。ウチナーンチュたちが集落を構えたのは、南先端部の堤防外の砂地。大阪の境界に架かる「モスリン大橋」から北へ伸びる道路より西を「浜西」、東を「浜東」と呼んだ。
 その河川敷で撮影された沖縄県人会兵庫県本部園田支部の写真に玉城と写る佐伯良次は「雨が降るたびに畳や家具がぷかぷかと浮くから『軍艦島』と呼ばれとった」と振り返る。
 海抜1メートル超しかない低地。水はけも悪く、大雨で川の水かさが増すとすぐに浸水した。
 戦後、焦土と化した沖縄から豊かさを求め多くのウチナーンチュたちが、戸ノ内や浜田(尼崎市)、高松(宝塚市)などに移住した。だが、住環境は劣悪で、満足な仕事を手にできないまま貧困を極めた。
 「炭焼き、養鶏、養豚―。会社勤めもさせてもらえないよそ者だから、生活のために何でもした」

 沖縄県が本土復帰した1972年、末安喜代子は、兄や姉の後を追って戸ノ内に移り、浜西の一角で沖縄の家庭料理店を始めた。
 当時は、細い路地をはさんで、老朽化した長屋や木造文化がひしめき、町工場が軒を連ねた。衛生、防災、福祉など、さまざまな課題に立ち後れた地区だったが、各家の玄関にはシーサーが飾られ、街角には三線(さんしん)の音色があふれた。同郷の仲間が寄り合い暮らす、まさに「沖縄村」だった。
 1978年から始まった市の住環境整備事業で長屋は団地へと姿を変えた。末安の店も立ち退きを余儀なくされ、「神崎新地」と呼ばれた遊郭街の一角の建物に移った。
(敬称略)

 第1次世界大戦後の不況は、沖縄にも深刻な影響を与えました。毒のあるソテツ(樹木)で飢えをしのぐほどだったことから、「ソテツ地獄」と呼ばれたそうです。本土への出稼ぎは年間2万人を超えたとされ、阪神工業地帯のあった関西が最も多く、紡績業や工業などの工場労働者として働いたとされています。

「アマとシマ」  ③残り香

沖縄料理店「より道」の外観と店内に飾られる三線など。(左下)は常連客と話す末安喜代子さん

 壁には三線(さんしん)や花がさが飾られ、泡盛のキープボトルが並ぶ棚には、「名物 沖縄そば」の手書きメニューが張られている。少し楕(だ)円形のカウンターは7席。その奥には8畳ほどの座敷がある。
 常連客のウチナーンチュ(沖縄の人)が、テビチ(豚足)やナーベラ(ヘチマ)の煮込みをあてに、ユンタク(おしゃべり)する。明るく、おおらかな島なまり。カラオケは決まって沖縄民謡だ。
 「昔からずっと、こんな感じ」。尼崎市の戸ノ内地区で約40年、沖縄家庭料理「より道」を営む末安喜代子は笑顔を見せる。
 沖縄県が本土復帰した1972年、兄姉を頼って戸ノ内へ。南先端部の「浜西」と呼ばれる長屋の密集地帯で、姉と一緒に店を始めた。市の再開発事業で立ち退きとなり、「神崎新地」の頃、遊郭だった今の建物に移った。
 長屋から団地への再開発や盛り場の衰退などで、ウチナーンチュは減った。戦前から戦後、高度経済成長期にかけつくられた「沖縄村」を感じさせるものは次第に姿を消していった。

 戸ノ内に住み続ける者。来ては離れて行く者。末安は、多くのウチナーンチュの人生をカウンター越しから見つめてきた。
 月に1回開く「模合(もあい)」もその一つ。本土の頼母子講と似た互助組織で、10人ほどのグループを作り、生活を支え合う。その取り仕切り役を担ってきた。「大切なのは同郷の仲間が顔を付き合わせ、グチを交わし、互いを思い合い、明日への希望を持つこと」
 沖縄県人会の寄り合いの調整、老人会の会合、旧盆の伝統行事「道ジュネー」…。折に触れ、ウチナーンチュたちの居場所を演出する末安。「同じことを続けてきただけ」と遠慮がちに口にするが、沖縄村の残り香は、静かに、そして確かに息づいている。

 末安が生まれたのは本島北部の本部(もとぶ)村(現本部町)伊豆味(いずみ)。八重岳(標高約453メートル)の麓にある町だ。国内で唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄戦の記憶はないが、当時10歳だった姉から何度も聞かされた。
 空襲や海からの艦砲射撃から身を守るため、集落の人々は家の近くに作った壕(ごう)で毎日息を潜めていた。「デテコイ、デテコイ」。1945年4月、本部村に到達した米兵に見つかり、壕の中で両親は自決を決意。父は手榴(りゅう)弾を手にしたが死に切れず、収容所に送られた。
 店の常連で、同じ伊豆味出身の西平守貞も両親や弟妹ら9人を連れ、八重岳で逃げ回った一人。生き残ったが、住民を巻き込んだ〝地獄〟を目の当たりにした。(敬称略)

「アマとシマ」  ④唯一の地上戦

左は西平守貞さんと当時の渡航用身分証明書。右は旧伊江島飛行場(沖縄県伊江村)と町立伊豆味小中学校(同県本部町)

 週に一度は、自宅近くの沖縄料理店「より道」に顔を出す。郷里の酒・泡盛をちびり、ちびりと、のどに流し込みながら西平守貞はゆっくりと口を開いた。
 「同じ集落の人が身を潜めていた壕(ごう)を米兵が火炎放射器で焼き払った。苦しみもだえる悲痛な叫び声が聞こえたが、すぐにやんだ」
 沖縄戦を生き抜き、1955年、パスポートを手に妻と2人の幼子を連れ、戸ノ内に移り住んだ。当時は「でこぼこの地面に水がたまり。カエルが鳴く湿った土地やった」。親戚の紹介で鉄塔などを作る工場で働き家族を養った。県人会の園田支部長を12年、副支部長を6年務め、戸ノ内にやって来たウチナーンチュ(沖縄の人)らの世話を続けた。戦争体験を語り継ごうと、新聞やテレビなどの取材も受けた。
 「地獄の光景を目にした者が語らんと、誰も覚えてくれんようになる。もう二度と戦争はするな」
     
 「より道」を営む末安喜代子と同じ沖縄本島北部の本部村(もとぶむら)(現本部町)伊豆味(いずみ)の出身。沖縄戦が始まった1945年、15歳だった西平は「東洋一」と言われた本部半島沖の伊江島飛行場建設に動員されていた。土石運びなどを行い、夜は大きな亀甲(かめこう)墓から骨を取り出し、寝泊まりした。
 戦況の悪化で伊豆味に戻ったが、同4月8日、本部半島に到達した米軍は攻撃を開始。西平は一家で山中を逃げ回った。艦砲射撃は山肌を削り取り、夜中も容赦なく焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。体力も気力も限界になり、「死ぬなら自宅近くで」と戻った際、家族全員米兵に捕らえられ、名護市・羽地(はねじ)の収容所に送られた。
 本部村並里出身の妻は当時12歳だった。米兵の攻撃から逃げる最中、同行していた日本兵が姿を消した。「見放された」。動揺したおばが手榴(りゅう)弾の栓を抜いた。母は片目を失明。妻の両目と全身に破片が刺さった。おばは即死。妹も翌朝、息を引き取った。
 今も好子の手足には破片が残ったままだ。体の具合が悪くなると、痛みに苦しむ。「70年たっても人に語ろうとしない。それほど壮絶な経験だったんでしょう」。西平は妻を気遣った。
     
 「より道」のカウンターに置かれた西平の泡盛グラスの中で、氷がカラリっと揺れる。「世の中これだけ落ち着いてしまったから、壁ができてしまったのかな」
 沖縄県人会の会員4019人中、76%の3073人が今や戦後世代。移住後に生まれた2、3世が増える中、沖縄戦の〝語り部〟を担ってきた西平は、伝えることの難しさを日増しに感じている。
 西平と同じ本島北部の別の収容所にいた仲村元一=尼崎市=も戦争への思いをつなぐ難しさにあえいでいた。
(敬称略)

 沖縄戦は大平洋戦争末期に行われた国内最大で唯一の地上戦です。米軍は1945年4月1日に沖縄本島に上陸。約90日間の戦闘で、約20万人が亡くなったとされています。うち、沖縄県民の死者は12万人以上に上り、県民4人に1人。米軍との戦闘だけでなく、日本兵による食糧強奪や、集団自決などもありました。

「アマとシマ」  ⑤3世代

(上)三線を弾く仲村元一さん。(下)琉球舞踊を踊る母知子さん(右)と娘佑奈さん

 義甲で弾く三線(さんしん)の音色は、激しく、そしてどこかもの悲しい。ゆったりと、しなやかに舞う琉球舞踊は、艶(あで)やかで、そしてどこか懐かしい。故郷が抱えた苦難の歴史、そこから立ち上がろうとする強さを奏でているかのようなパフォーマンスに聴衆は息をのむ。
 神戸市中央区の神戸文化ホールであった「サウンドオブ琉球~世は稔れ(ゆばなうれ)~」。尼崎市で三線を教える仲村元一=尼崎市=は、舞踊家の娘知子と孫娘の佑奈の3世代で舞台に立った。
 沖縄戦の激戦地となった首里や那覇で育ち、高校卒業後、集団就職で兵庫にきた仲村。1945年、生後2カ月の自分を抱えた母ら身内9人は、本島北部に逃げる途中、渡野喜屋(とのきや)(大宜見村)で半数が命を落とした。米軍の掃討作戦を恐れた日本軍が島民にスパイ容疑をかけ、約30人を殺害したとされる「渡野喜屋事件」。仲村はその生き残りの一人だった。
 「おまえは死ぬところだったんだから」。母から伝え聞く沖縄戦の記憶。焦土と化した街には多くの遺骨が散らばり、「家族が引き取りに来るから触るな」との大人たちの教えを守り、その場をそっと離れたこともあった。
 通っていた那覇市内の中学校の上空を米軍機が飛び交い、街を数十台の戦車が地響きをたてて走る。ここかしこに米軍専用施設が横たわる。子どもながらに戦争の爪痕を肌で感じてきた。
 尼崎に来てからは、会社勤めの傍ら、琉球舞踊家の妻米子の活動を支え、自らも三線を習得した。芸能文化を通じ、反戦や沖縄への理解を願うが、自分が経験した「沖縄の日常」が、ナイチャー(本土の人)には「非日常」としか映らない。過ぎゆく歳月にも阻まれ、歯がゆさが募る。

 「私は100%、琉球人」
 尼崎で生まれ、育った2世の知子は、迷いなくこう言い切る。
 母・米子が舞踊家だったこともあり、幼い頃からそばには踊りがあった。言葉や習慣、料理など、日常は「沖縄」であふれていた。とは言え、周囲には「沖縄生まれじゃないのになぜ踊りをしているの?」と映るのか、幾度なく尋ねられたこともあった。
 しかし、むしろ逆で、「生まれ、育っていないから、沖縄のこと、踊りのことをもっともっと知りたい」との思いが膨らんだ。
 米子が設立した「関西琉球舞踊研究所」の二代目代表に就任。月1回、沖縄に通い沖縄民謡講師の認定も受けた。米子が極めた古典に加え、新たに民謡を取り入れたのは、型が容易でナイチャーにも触れやすいと考えたからだ。
 2012年にはNPO法人を創設し、舞台や講演会で沖縄の伝統的な文化、芸術、芸能を広める企画を数多く手掛ける。「沖縄のことを知ってもらえれば誰しも情がわく。さまざまな〝入り口〟を提示するのが私の仕事」

 知子は神戸の舞台で初めて、娘・佑奈と2人で踊った。表情や仕草、動きに成長を感じずにはいられなかった。
 舞台のタイトル「世は稔れ(ゆばなうれ)」は、稔(みの)りある世の中になってほしいという意味の島言葉だ。その言葉に込めた思いが、アマ(尼崎)とシマ(沖縄)の地で、そして社会に広がってほしいと願う。
(敬称略)

「アマとシマ」  ⑥転機

友愛キャンプでは戦跡や慰霊碑などを訪れ、両県の参加者がディスカッションした。(上)は「アブチラガマ(糸数壕)」(沖縄県南城市)

 「今から15秒間、懐中電灯の明かりを消してください」
 ボランティアガイドの声が洞窟内にこだまする。目を閉じているのか開けているのか分からなくなる漆黒の闇。その中で主婦人見明美=尼崎市=は、70数年前を想像した。
 沖縄本島南部の「糸数壕(ごう)(アブチラガマ)」(南城市)。全長270メートルに及ぶ自然洞窟は、沖縄戦時下、住民の避難場所や日本軍の陣地、倉庫になった。戦況悪化で、陸軍病院分室としても使われ、ひめゆり学徒隊などが入り、約600人の負傷兵が運び込まれた。
 住民らが身を寄せていた狭い岩場や天井に開いた空気穴、爆風よけの石積み…。人見は爆音が響く戦場の地下で、息を潜め、祈る、当時のウチナーンチュ(沖縄の人)の様子を思い浮かべた。
   
 人見の祖父母は沖縄・久米島出身。自身は尼崎で生まれ育った3世だ。観光などで何度か沖縄を訪れたことはあったが、戦跡に触れたのは初めてだった。特段、避けてきたわけではない。料理や音楽などで沖縄を感じることはあっても、戦争や基地問題などについて、父母や周囲の知人らと、深く話をする機会はほとんどなかった。
 沖縄県人会の活動を続ける中で、沖縄が本土復帰した翌年の1973年に始まった「兵庫・沖縄青年リーダー交流事業」(友愛キャンプ)を知り、参加を決めた。そこで出合ったガマの光景は、人見が知らなかった沖縄の姿だった。
 空気が薄く、息苦しいガマの中で長女の顔が浮かぶ。「伝えていきたい。沖縄にルーツがある自分にはその責任があるのでは」。初めて湧き出た思いだった。
     
 沖縄県人会から参加したもう1人の3世、会社員仲順(なかじゅん)信介=尼崎市=は、沖縄戦で亡くなった兵庫県出身者を慰霊する「のじぎくの塔」(糸満市)で、参加者26人を代表して「誓いの言葉」を読み上げた。
 2年連続の参加。誓いの言葉は志願した。それを駆り立てたのは、昨年のキャンプで出会った沖縄の女子大生の言葉だった。
 「本土との温度差は仕方ない。しかし、人ごとだと思わないでほしい」。米軍基地問題について交わした議論で、兵庫の参加者に向けられた意見にたじろいだ。県人会の手伝いをする中で沖縄を意識し始めていたが、現地との差を突き付けられたような気がした。
 「今の自分にできることをしていきたい」。この1年、その差を埋めようともがいてきた思いを言葉に込めた。
 同じ尼崎生まれの沖縄3世・比嘉純也=尼崎市=は約30年前、舞踊グループ「琉鼓(りゅうこ)会」を結成した。同会は、アマ(尼崎)とシマ(沖縄)をつなぐ存在へとなっていく。
(敬称略)

 沖縄県が本土復帰した1972年、兵庫と沖縄は「友愛協定」を締結。翌年から始まった両県の若者が交流する「兵庫・沖縄青年リーダー交流事業」(通称・友愛キャンプ)は、これまでに40回を超え、延べ約4350人が参加しています。夏は沖縄で、冬は兵庫で実施する、他の都道府県にはない取り組みです。

「アマとシマ」  ⑦心の故郷

道ジュネーの先頭で「琉鼓会」の旗を持ち、踊る比嘉純也さん

 沖縄に伝わる旧盆に合わせ、エイサーを踊りながら地域を巡る「道ジュネー」。毎年9月、ウチナーンチュ(沖縄の人)の原点のまち・尼崎市戸ノ内町で行われている。尼崎生まれの沖縄3世らの舞踊グループ「琉鼓(りゅうこ)会」の勇壮な舞いは、喫茶店「ロング」のそばを練り歩き、沖縄家庭料理店「より道」の前で最高潮に達した。
 ロングの店主玉城幸子は目を細め、沖縄戦を生き抜いた西平守貞は大きな拍手を送った。より道の女将(おかみ)末安喜代子は優しく見守った。
 列の先頭で「琉鼓會(かい)」と書かれた旗を振り、エイサー集団を束ねるのは、沖縄3世の比嘉純也=尼崎市=だ。
 本土復帰の1972年生まれ。豚を飼い、沖縄民謡が流れる家で育った。年に一度は家族で親戚のいる沖縄に行き、幼い頃からウチナーンチュであることを誇りに生きてきた。だが、高校卒業後、仕事先で出会った沖縄出身者に「ナイチャー(本土の人)か」と残念がられた。「なんで自分は沖縄で生まれなかったんやろう」。アイデンティティーに悩んだ。
 抱いてきたわだかまりは、20歳のとき、初めて目にしたエイサーで吹っ飛んだ。「これしかない」。エイサーを学び、すぐにメンバーを集めた。初舞台は1993年。もちろん戸ノ内を選んだ。太鼓を積んだ車で向かうと、楽しみに集まった多くのウチナーンチュたちの姿が見え、体が熱くなった。
 
 沖縄には、亡くなったウチナーンチュの霊魂(マブイ)を感じ、大切にする考え方が残っている。琉鼓会の衣装や旗頭に刻まれるロウソクの炎のようなマークは、マブイと、それを優しくすくい上げる両手を、その下部に連なる「◇」は、マブイを光り輝かせるメンバーを表す。
 1995年の阪神・淡路大震災で、被災地を回った際、「たくさん太鼓があるのに、音は一つに聞こえる。自分たちも気持ちを一つにしてやっていくヒントをもらった」と言葉を掛けられ、エイサーの持つ力を実感した。
 活動に共感したナイチャーも増え、県人会の手伝いや沖縄のことを知ろうとしてくれる。沖縄から関西へ来た若者が入会し、帰郷後に地元の伝統行事を守り、支えるリーダーとして活躍する。琉鼓会の名前も知られ、沖縄全島のエイサーまつりにも出場した。
 「沖縄は心の故郷。生まれ育ちが尼崎でも、エイサーを通じ、気持ちを共有できるようになった」。比嘉は力を込める。
 一方で、沖縄戦経験者や苦難を歩んだ1世らに宿る記憶や思いのひだを、自分らの世代が継承していく責任の大きさに不安もある。
 「これからはアマ(尼崎)のウチナーンチュ魂を呼び起こす響きを作りたい」。ウチナーンチュの記憶をつなぐ覚悟を少しずつ持ち始めている。
(敬称略)

 長屋がひしめき、街角には三線の音色があふれる。沖縄県人会史に刻まれるような「沖縄村」の面影は、戸ノ内から姿を消していました。
 一抹(まつ)の寂しさを覚えながら訪ねた沖縄家庭料理店「より道」。そこに集うウチナーンチュ(沖縄の人)と会話を重ねる中で、「残り香」が確かに息づいていることを感じ取れました。
 生々しい沖縄戦の記憶に今も苦しむ人。それを伝えようともがく人。望郷の念を抱きながらアマ(尼崎)の地で強く生きる人。「模合(もあい)」と呼ばれる互助組織も健在で、同郷の仲間が身を寄せ合い、生活を支え合っていました。
 一方で、県人会の76%が戦後生まれと世代交代が進み、尼崎生まれの2、3世も増えています。1世らは、文化や風習だけでなく、ウチナーンチュの記憶をどう伝えていくべきなのか、思いあぐねる新たな問題にも直面しています。
 そんな中、戸ノ内で目にした「道ジュネー」に心揺さぶられました。3世らでつくる舞踊グループ「琉鼓(りゅうこ)会」の力強く、勇壮なエイサーの舞い。そして、見る者の心をかき立てるパーランクー(太鼓)の響き。
 先人がつくり、育んできた、アマ(尼崎)に根付く沖縄コミュニティーが、これからも受け継がれていく。そんな思いを強く抱き、戸ノ内の町を後にしました。

<ド・ローカル>
1993年入社。この取材以来、すっかり戸ノ内に魅了されました。沖縄の伝統芸能・エイサーを踊りながら地域をめぐる「道ジュネー」が今も残り、沖縄料理店「より道」で食す沖縄そばや中身汁は最高です。ぜひ一度、兵庫の〝リトル沖縄〟へ足を運んでみてください。

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