沖縄県が本土復帰してから5月15日で50年を迎えます。沖縄と兵庫のつながりをさかのぼれば、神戸市須磨区出身で、太平洋戦争末期の沖縄県官選知事・島田叡(あきら)が有名ですが、それ以前の昭和初期(1930年代)ごろから、沖縄の人たちは出稼ぎのために尼崎市や神戸市などに住むようになりました。沖縄県が本土復帰した1972年、沖縄と兵庫は「友愛協定」を締結しました。1975年には兵庫県民の募金で那覇市に「友愛スポーツセンター」(現在は閉鎖)が建設されるなど、長年交流が続けられています。現在も2世、3世が多く在住し、沖縄県人会兵庫県支部(尼崎市)は、全国屈指の沖縄県人会として知られます。
こんにちはド・ローカルです。久々の投稿です。沖縄県の本土復帰50年が近づき、ぜひ読んでいただきたい連載企画があり、筆を執りました。
私がかつて勤務していた阪神総局時代に手掛けた連載、その名も「アマ(尼崎)とシマ(沖縄)」です。兵庫の〝リトル沖縄〟と呼んでも過言ではない尼崎市戸ノ内地区を舞台にしたものです。少し長文となりますが、50年の節目にお付き合いください。
「アマとシマ」 ①原点
戸ノ内地区は、兵庫の東端、大阪府との府県境にあります。原稿にもありますが、猪名川、神崎川の合流地点に位置し、三方を川で囲まれ、まるで靴下のような形をした〝シマ〟にも見えます。少し古い数字ですが、沖縄県人会兵庫県本部には1344世帯、4019人(2015年4月現在)が登録しています。14支部のうち9支部が尼崎市内にあり、883世帯、2622人と全体の約7割を占めます。
「アマとシマ」 ②沖縄村
第1次世界大戦後の不況は、沖縄にも深刻な影響を与えました。毒のあるソテツ(樹木)で飢えをしのぐほどだったことから、「ソテツ地獄」と呼ばれたそうです。本土への出稼ぎは年間2万人を超えたとされ、阪神工業地帯のあった関西が最も多く、紡績業や工業などの工場労働者として働いたとされています。
「アマとシマ」 ③残り香
「アマとシマ」 ④唯一の地上戦
沖縄戦は大平洋戦争末期に行われた国内最大で唯一の地上戦です。米軍は1945年4月1日に沖縄本島に上陸。約90日間の戦闘で、約20万人が亡くなったとされています。うち、沖縄県民の死者は12万人以上に上り、県民4人に1人。米軍との戦闘だけでなく、日本兵による食糧強奪や、集団自決などもありました。
「アマとシマ」 ⑤3世代
「アマとシマ」 ⑥転機
沖縄県が本土復帰した1972年、兵庫と沖縄は「友愛協定」を締結。翌年から始まった両県の若者が交流する「兵庫・沖縄青年リーダー交流事業」(通称・友愛キャンプ)は、これまでに40回を超え、延べ約4350人が参加しています。夏は沖縄で、冬は兵庫で実施する、他の都道府県にはない取り組みです。
「アマとシマ」 ⑦心の故郷
長屋がひしめき、街角には三線の音色があふれる。沖縄県人会史に刻まれるような「沖縄村」の面影は、戸ノ内から姿を消していました。
一抹(まつ)の寂しさを覚えながら訪ねた沖縄家庭料理店「より道」。そこに集うウチナーンチュ(沖縄の人)と会話を重ねる中で、「残り香」が確かに息づいていることを感じ取れました。
生々しい沖縄戦の記憶に今も苦しむ人。それを伝えようともがく人。望郷の念を抱きながらアマ(尼崎)の地で強く生きる人。「模合(もあい)」と呼ばれる互助組織も健在で、同郷の仲間が身を寄せ合い、生活を支え合っていました。
一方で、県人会の76%が戦後生まれと世代交代が進み、尼崎生まれの2、3世も増えています。1世らは、文化や風習だけでなく、ウチナーンチュの記憶をどう伝えていくべきなのか、思いあぐねる新たな問題にも直面しています。
そんな中、戸ノ内で目にした「道ジュネー」に心揺さぶられました。3世らでつくる舞踊グループ「琉鼓(りゅうこ)会」の力強く、勇壮なエイサーの舞い。そして、見る者の心をかき立てるパーランクー(太鼓)の響き。
先人がつくり、育んできた、アマ(尼崎)に根付く沖縄コミュニティーが、これからも受け継がれていく。そんな思いを強く抱き、戸ノ内の町を後にしました。
<ド・ローカル>
1993年入社。この取材以来、すっかり戸ノ内に魅了されました。沖縄の伝統芸能・エイサーを踊りながら地域をめぐる「道ジュネー」が今も残り、沖縄料理店「より道」で食す沖縄そばや中身汁は最高です。ぜひ一度、兵庫の〝リトル沖縄〟へ足を運んでみてください。
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