第9回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで③」
話す仕事も、放送作家への道も、地元のことを書ける場もすべてない
50歳を区切りに「うつ状態」からは回復して体調は戻った。
仕事も楽になって時間もできたので、自分の好きなことに取り組んでいこうと考え始めた。
ところが実際にすぐにできることはなく、逆に何をしてよいのかわからない状態に陥った。
いかに自分が会社にぶら下がっていたのかを思い知らされたのである。
最初に頭に浮かんだのは、「サラリーマン向けのラジオ番組ができないか」ということだった。
40代半ばの支社長当時に、社外のオーディションにこの企画を提出したことは、この第7回の連載で書いた。
まずアナ・トーク学院に入って様子をうかがってみた。ここは当時吉本興業がバックアップしてアナウンサーやパーソナリティ、司会者やDJなど、しゃべるプロを育成するスクールだった。
「ありがとう浜村淳です」という関西では有名なラジオ番組で、浜村淳と組んで活躍した鈴木美智子さんが学院長だった。
教室で私と机を並べていた関西大学の学生Tさんは、朝日放送のアナウンサーになって現在も活躍している。テレビ画面で彼が登場すると今でも嬉しい気分になる。
この学院の実習の際にFMラジオのスタジオで話したこともあったが、「自分はものにならないな」とすぐにわかった。
生まれ育った神戸・新開地には、神戸松竹座という大きな演芸場があり、子どもの頃からよく通っていた。その影響もあって何らかの形で演芸に関われないかと考えた。
放送作家を養成する学校を吉本興業が運営していたので、そのプレ講座にも顔を出した。
周りはほとんど20代で、50代のオジサンは私一人だけだった。
現役の放送作家の話も聞いたが、芸人と放送作家とが相互に交流していて、途中からそこに入るのはとても無理だと感じた。
吉本興業の社員も「楠木さんはお笑い好きだと言わないほうがいい。ビジネスの分野で書く場所を持っているのでそちらを伸ばすべきだ」とアドバイスをくれた。
結局、50歳を過ぎて演芸の世界と関係を持つことは困難だと思い知った。
私は自分が生まれた神戸に愛着も郷愁もある。「地元のことを書きたい」と考えたが、それを発信する力量も手立てもなかった。
当時は、時間があったので、これらの取り組みと並行して、サラリーマンから異なる仕事に転身した人たちの話を興味深く聞き続けた。
また取材を進めるために社会人大学院に通い、会社員の生き方に関する私的研究会も立ち上げていた。
年収350万円アップを断った、その理由
復帰して1年あまりが経った頃、目標管理の面談の際に、部長が想定していないことを切り出した。
「新年度は、新たな職場に変わって今のように働けば、役職の復帰がありうる。そうなれば350万円の年収アップになる」
具体的な条件を伴った話だった。長期にわたって休職したので、当時は会社のルールで平社員として働いていた。役職復帰のチャンスを与えるという会社や部長の配慮だと理解した。
給与は、年収が一番高いときの半分以下になっていた。娘の大学入学もあって教育費がかかり、生活費もすぐに縮小できないので家計のマイナスがずっと続いていた。部長の話は家族にとっても一安心できる内容だった。
ところが私は戸惑いを隠せなかった。再び役職に戻って部下を持つと、取材や執筆にかける時間や労力がそがれるからだ。
といっても350万円。
私は「少し考えさせてください」と部長に話して、誰もいない会議室のパイプ椅子に座ってアレコレ考えた。1週間後に迫った定期異動を前提にした話だったので時間がない。この場で決断しなければならなかった。
役職復帰を受ければ、安定した生活は確保できる。拒否すれば、次のチャンスはなかなか巡ってこないだろう。
また先述した演芸に関わることや、会社員の生き方などを発信しようとしていることも、どれだけモノになるかは未知数だった。
人事労務雑誌に連載を書く場を持っていたが、客観的にみれば個人の趣味の延長でしかなかった。
いろいろなことが頭をグルグル巡った。時間にすると、10分か15分だっただろうか、
「あかん。やっぱり好きなことをやろう」と決めて部長に申し入れた。
「すいません部長、お話はありがたいのですが、役職に戻ることは断ってください。当面は平社員で働きたいのです」
「年収を350万円上げてやる」と言って、辞退する社員がいるのは想定外だったのだろう。部長は私の申し出を十分理解できない様子だった。
翌週の人事異動の内示では、私の異動や役職復帰はなかった。
チャンスを与えられたのに辞退したので、しばらくの間は平社員のままで、その後数年して役職に復帰した。
振り返ると、このときの決断が私にとって最大のターニングポイントだった。人生で初めてやりたいことが見つかりつつあるのに、それに制約を付けることはできなかったのである。会社の仕事にしがみつくのではなく、「自分に合った好きなことを見つけて、そこに光明を見出したほうがいい」と考えた。単なる損得勘定では、この結論には至っていない。
その結果、会社の仕事と著述業を並行させることによって会社生活を楽しめるようになり、69歳になった今も現役で著述業を続けている。
その日の夕刻に、通っていた社会人大学院の仲間に、この出来事を話すと「ウワー」と声があがり拍手が起こった。その反応を見て「これだったら俺はやっていけるかもしれない」と思ったことを覚えている。
論理的にはなんの脈絡もなかったのであるが。
スパムメールと思ったら連載依頼
第6回にも詳しく書いたように、私はこの頃、会社員から異なる職業に転身した人の話に刺激を受けていた。
「ITメーカーの部長→美容師」になった人を初め、会社員や公務員から、大学教員、農家経営、大道芸人、提灯職人など多様な分野に踏み出した人達に話を聞いた。最終的には取材した転身者は150人程度になった。
彼らの多くが収入は減少しているにもかかわらず、「いい顔」をしていることに魅せられた。
彼らの転身プロセスの中に何か私が求めるヒントがあると感じていた。ただそれが何かはよく分からなかった。
この頃、「相談したいことがあります」というタイトルのメールを受け取った。
差出人が女性の名前のようにも読めたので「スパムメールかな」と思って消しかけたが、何となく違和感があったのでクリックしてみると朝日新聞の記者からだった。
「メンタルヘルスについての連載を朝日新聞土曜版のbeでやりませんか」という依頼だった。なぜメンタルヘルスかというと、これには前段がある。
私は、うつ状態で会社を休職して一旦回復した時に、その間の体験を文章にまとめて「ビジネスマンうつからの脱出」(創元社)というタイトルの本を出版していた。
朝日新聞の記者はその本を読んでメールをくれたのだった。
しかしメンタルヘルスの連載は私には書けない。自身の体験以外に基本知識もなければ人の相談に乗ったこともなかったからだ。
「一般の人向けにメンタルヘルスの連載は書けません」とお断りした。ただそれだけではあまりにも愛想がないので、「今は会社員から転身した人について取材をしています」と下段にいくつかの具体例を書き加えた。
それを読んだ朝日新聞社のデスクが「こちらのほうが面白そうだ」と反応してくれたのだ。「転身のテーマで連載をお願いします」と記者から返信メールが来て驚いた。
転身した人であれば、ネタのストックもあるので連載できる見通しがついた。喜んで引き受けすることにした。
事前の打ち合わせのために、上京して朝日新聞社東京本社の玄関に入るときに何か足許から身体中に力がみなぎってきた。
これが本格的に執筆を始める第一歩になった。
この一本のメールがきっかけで、2007年から朝日新聞での連載「こころの定年」が始まった。
毎週取材した1人を紹介するコラムであり、それを1年あまり続けた。最終的に50人あまりの人に登場してもらった。ほぼすべて実名だったので読者にどのように受け取られるかという緊張感は大きかった。
原稿案をファックスで記者に送っては、そのたびに修正が入った。その修正後の原稿をもとに「この内容でいきます」と取材した本人に了解を取って新聞に掲載する。
この作業を毎週毎週繰り返した。
当初は、文章を700字程度のコラムに収めるのが大変で、記者から大きく変更を求められることもあった。今までは、仕事上の文章しか書いてこなかったからだ。
連載の後半になると、なんとか修正箇所も減ってきた。どんなライター講座に通うよりも私の力量をアップさせてくれた。
メールをくれた記者は、私にとっては大恩人で今でも彼に足を向けては寝ることはできない。
「また、お前はええ加減なことを言うて」
その頃はペンネームで書き、勤めている会社の名前もオープンにしていなかったので、取材などでは「お前は一体どこの馬の骨なんだ」といった厳しい応対も数多く受けてきた。
しかしこの朝日新聞の連載を始めてからは、それ相応の対応をしてくれる人が増えた。コラムに取り上げてほしいと自分から申し出てくる人もいた。
当時発行部数が800万部あった朝日新聞での連載は、多くの人に読んでもらえた。
ある日、事情があって支店長の役職を外れていた友人とたまたま喫茶店で話をしていた。私も平社員だったので、似たような身の上同士の二人だった。
「会社を退職して、フリーで頑張っている人の記事を読んだんだ」と彼が話し出した。
「どんな内容なの?」と私が聞くと、
「社員のリストラを断行した百貨店の店長が、結局自分も退職することになって、一から人事コンサルタントで出直そうとする話だった」
「それは何新聞?」と再び聞く。
「朝日新聞の別刷りの記事だ。社用車があって秘書もいた立場から、鉛筆1本も自分で買わなければならなくなったそうだ」と彼は答えた。
もう間違いなかった。
「あの記事を書いているのは実は俺なんだ」
「えっ!名前は違っていたぞ」
「ペンネームで書いている」
「また、お前はええ加減なことを言うて」
「俺がおまえにうそを言ったことがあるか」
簡単に事情を説明しても彼はまだ半信半疑だった。
「来週は通信会社から提灯職人になった人が出るからな」と言って別れた。
「そうか、この分野の話はインパクトがあるんだ」と実感した。
同時に自分が書いた記事で目の前の友人が何かを感じている。こんなに嬉しかったことはない。
また「こころの定年」の連載を読んで感想を送ってくれる読者もいた。普通だったら出会えない人ともやり取りできることは驚きだった。どんなことがあっても発信を続けていこうと決意した。
「働かないオジサン」。神戸・新開地での体験が執筆に活きる
朝日新聞での連載やその後の取材を繰り返す中で、中高年以降になると働く意味に思い惑う会社員が多いことに気がついた。
社内には社員同士の競争があり、組織の目標を達成するために忙しく働いて、自分の時間を持てない。また顧客との応対や上司や部下との人間関係などのストレスも大きい。
一方で、会社員である個々人は、いろいろな夢や欲求を持っていて、家族を含めた生活を充実させたいと願っている。
これらの課題に寄り添っている人はいるのかと考えると、評論家や大学の研究者などが頭に浮かんだ。
しかし彼らの言葉はそれほど心に響かなかった。会社員の立場を十分理解していないと感じていたからだ。
会社員が求めている需要の大きさに比べると供給側が追いついていない。会社員に役立つ情報や機会を提供すればチャンスがあるのではないか。
会社員は数多くいるが、自ら発信する人は少ないのでライバルもほとんどいない。50歳から取り組んでも間に合うかもしれない。
言い換えると、サラリーマンが「いい顔」になるのを支援するという「芸」で身を立てることができるのではないかと考えたのである。
子どもの頃から、身の回りには会社員や公務員はいなくて、神戸・新開地の商店主や職人たちの中で育ったことが有利に働くだろうと直感した。
先ほどの評論家や大学の研究者はサラリーマンの世界を知らない。
一方で、サラリーマンは発信するにしても会社組織の枠内にとどまっていることが多い。
会社員とフリーランスの双方の立場を理解できるとともに、両方に足場を置く境界にいる存在として強みを発揮できると感じたのである。
またアウトローの人達のシャワーを浴びていたことも後押しするのではないかと考えた。2013年に東洋経済オンラインで「働かないオジサン」の連載を始めた。
私が使ったこの言葉はキャッチ―だと判断されたのか、ヤフーのトップニュースに3回ほど取り上げられた。
10年経った今でも書籍やネットで使用されている息の長い言葉だ。
拙著のタイトルにも、『働かないオジサンの給料はなぜ高いのか』 (新潮新書)、『働かないオジサンになる人、ならない人』(東洋経済新報社)などと取り込んだ。
一般には「働かないオジサン」は、日本型の雇用システムの中で、中高年以降になって意欲を失う会社員の意味で理解されている。
ところが私の場合ではニュアンスは少し異なる。
小学生当時の授業で、教育テレビ(今のEテレ)の「はたらくおじさん」という番組を視聴覚教室で見ていた。
トラックの運転手が「今から名古屋まで荷物を運びますわ」とインタビューを受けている画面を見て、「ボクの周りには、働いていないオジサンが多い」とつぶやいた記憶がある。
歓楽街のど真ん中では働いていない遊び人が多かったからだ。
会社員でもなくフリーランスでもない、初めから働く意欲のない真正の「働かないオジサン」。
小さい頃から私は知っていた。幅広く働き方を理解する意味で、これもアドバンテージになるだろうと考えたのである。