(創作)選ばれた子ども 第一話
ー海ー
海は嫌いだ。真っ直ぐな水平線を眺めるたび、背筋を伸ばしながらいつもそう思うが、夏休みがはじまって、毎日ここに来ていることを考えると、実は好きであることを隠すため、嫌っているふりをしているのではないかと、疑ってしまう。
二十メートルほど先の岩場に、一羽のカモメが留まっていた。細く尖った嘴で、岩と岩の隙間にある何かをほじくっている。たまに神経質そうな眼差しで周囲を見渡すと、ぼくを間接的に威嚇するかのように、いかにも野生の鳥らしい、攻撃的な声を荒げている。ひどく暑いせいで流れた汗の臭いを嗅ぎつけ、鳥たちがぼくを攫いにくるのではないかと、やや怯えてしまう。小さい頃に知り、恐ろしくて仕方のなかったプロメテウスの神話を、ぼくは思い出した。ゼウスを裏切ったプロメテウスの内蔵を禿鷹が食い散らかす陰惨なイメージは、いまだに脳裏のもっとも暗い場所にこびり付いている。
鳥も嫌いだった。きっかけは、六歳のときに親戚の一家と行った海水浴場での経験だろう。もしかしたら、海を嫌いはじめたのもこのときからかもしれない。あそこで受けた傷は、いまでも頸に、痕となって残っているのだから。
今もまだ賑わっているかわからないが、当時あの海水浴場は毎年八月になると海水よりも集まった人の波の方が重いと思えるほど、繁盛していた。浜辺の混乱から逃れるために、水着になった観光客たちは素早く水へ飛び込む、そんな奇妙な風景が一日中繰り返されていた。
ぼくもその中に混じり、そして誰よりも徹底したかたちで、海水浴を楽しんでいた。ほかの家族の目から離れて、海の家で買ったフランクフルトを食べながら、浮き輪に乗って少し遠くまで泳ぎ、人のごった返しを観察する。フランクフルトを食べ終わると浜辺へ戻り、親に食べ物をねだり、買って貰うと再び海に向かった。これを続けることが、なんとなく居心地がよかった。
だがこうした行為を繰り返していたせいで(もしくはもっと確率的なものかもしれない)、ひどい事故に巻き込まれてしまった。ぼくはいつも通り海面に浮きながら、日差しに当てられて決して冷めることのないフランクフルトを咥えていたが、ふと背後から肩幅くらいの影が落ちてきたかと思うと、それで全身を包むようにして、カモメが、二本の脚で襲ってきた。狙っていたのは右の手に握られたフランクフルトだというのは明らかだった。
恐怖でふるえる直前、咄嗟にぼくは臍を見るようにして前屈し、腹と両腕で鳥の獲物を隠そうとした。だがそれが悪手であったことは、今振り返れば誰でも当然と思うに違いない。
頸に大きなカモメの引っ掻き傷を抱えながら、血を垂らし、陸へ上がったぼくを見たとき、同行していた親戚は時間が止まったような顔をしたが、しばらくすると再び各々のしていたことへ復帰しはじめた。ただ、ぼくの母と、再従兄弟だった年長の少年だけは、そのあともしばらくぼくの傍に居続けた。
救命士による応急処置を済ませ、砂の上に敷かれたビニールシートに横たわり、大きなパラソルの陰で休む。再従兄弟は文字通り指を咥えながら、ぼくの方をずっと眺めていた。当時のぼくもなんとなく理解していたことだが、彼は生まれつきの知的障害を抱えていた。遠くの世界の記憶があるみたいな、不思議なことをよく喋る。だがそのときは、赤く灼けた肌を見せつけるように、肩を揺らしながら直立し、泣いているのか笑っているのかよく分からないくらい、大袈裟な表情をしていた。
水着姿の母が、ぼくの生乾きの頭髪を撫でながら、ずっと彼を睨んでいる。母の顔を直接確認したわけではない。けれど、ぼくの頭皮に触れる母の細長い指の先がいつもより優しかったこと、一方で同じところばかり触り続けること、そしてそのあとに発した言葉とで、直感的にぼくは、母がひどい怒りと屈辱にかられていることがわかった。
母は小声で、しかし耳をすませば近くにいる彼にだって聞こえるはずの抑揚を使い、ぼくに話しかけた。
「ねえ、ママが、パパのところへお嫁さんになりに行ったときね、パパのおうちの人たちと仲良しになって、こう思ったの。子供は元気で、賢くて、育てがいはあるけど、手間がかかりすぎない子がいいって。逆にそうじゃない子は、絶対に育てたくないって、産む気もないって。これは、パパにもその家族にも、みんなに直接言ったことなの」
話しかけているあいだも、母はぼくの頭を触ってくれていた。傷口の痛みが少し薄れて、やや微睡みかけはじめたときに、もう一度母はこう言った。
「あなたは世界で一番美しい子供よ。ママは大好き」
そのとき、ぼくは何を思っていたのか。今となってはよく覚えていないが、ただ記憶に残っているのは、真っ青なビニールシートの表面で、静かな風に吹かれて、小刻みにふるえている砂粒だけだった。そして、まるで小さな海の模型を俯瞰しているような高揚感におそわれたところで、六歳のぼくのもっとも鮮やかな思い出は途切れてしまっている。
汗を拭い、シャツの襟を掴んでぬるい空気を胸元にまで送り込んだ。海に背を向けて、家へ続く坂道を目指して歩きはじめる。午後二時を過ぎていた。そろそろ恋人が訪ねてくる時間だった。
海から少し離れると今度は内陸部に向かってゆるやかな斜面が続く。歩き続けても疲れはしないが、自転車を使えばすぐに息を切らすような、中途半端な角度の坂が街の土台になっていた。だが二百メートルほど歩き、ふと背後を振り返れば、空とは絶対的に区別されて広がる海が、目線のずっと下にあることに気づく。注意を怠れば海風に足をすくわれて斜面を転がり、再び海へ振り戻されるのではないかと不安になってしまう。
ここには小学生になると同時に、父の仕事の都合で引っ越してきた。それ以来、あの海水浴場とも再従兄弟とも縁は切れてしまったが、砂浜を擦りながら迫る白波を見るたびに、わずかな郷愁が混じった幼少期のトラウマは、しつこくぼくの心を揺さぶり続けていた。トラックが向こうから坂を降ってきて、積載した木材の束をごとごとと鳴らしながら、ぼくのすぐ近くを通り過ぎた。舞い上がった排気ガスと細かな砂粒が頬に当たる。非難の目をして振り返ったときには、すでにトラックは眼下を走行して、小さくなっていた。
……(第二話へ続く)