(創作)女のいる帝国

 一つの帝国が生まれ、栄え、衰え、滅びる。後から想い返せば、それは男たちの些末な夢だったのかもしれない。廃墟に流れる風が伝えるものは、もはやそこで誰が暮らしていたのかも分からない、全てが混然一体となった過去だった。あの男たちは一体、歴史のどこへ消えていったのだろうか。そして現代の建国者たちもまた、失われていく権力の中で、何を目撃しているのだろうか。
 上は一面の青。そこにひび割れのように黒い線が幾重にも交差している。空と電線は奇妙なほどよく似合う。塗り残されたように、余白が片隅に並んでいる。どこかで見たことがあるような、しかし初めてやってくるこの街を、青年は風に当たりながら散策していた。
 木漏れ日の無い、まっさらな光に身をあてながら、肌身に浸透していくほのかな熱を受けて青年は期待していた。大学に合格して一か月。暗い洞穴のような実家を出て、遂に念願の一人暮らしが叶ったのだ。彼はこれから何か良いことが起こることを真摯に信じていたし、また、必死に肯定しようともしていた。今は迷路のようなこの街並みも、いつかは心に描かれた地図となり、なんの変哲もない退屈でちっぽけなものになるだろう。しかし青年は、そのことには敢えて目を伏せ、今ここにある、新鮮な新天地の陳腐な香りだけを嗅ごうとしていた。
 彼の地元は、質素な住宅街にあった。朝に鳴くカラスも、公園に一族を築く猫の群れも、夕方の主婦の井戸端会議も、彼にとっては珍しくもない情景だ。そして今度引っ越してきたこの街も、それと同様であるはずだ。ただ以前と「違う」という一種妄信めいた確信が彼の意識を侵し、それによってのみ、彼は期待に貫かれ、街中を闊歩する動機を作り上げていた。
 下校中の自転車に乗った高校生が、ぶつかりそうになるほど接近して、彼を背後から抜かしていった。黒味のある紺色のブレザーが、徐々に小さくなりながら、彼の視界の中央に収まっていく。そしてある地点で道を曲がり、その黒っぽい点は消えてしまった。
 遠くから、やけにハキハキとした声の群れが、歌うわけでもなく、会話をするわけでもなく、ノイズのような体で耳に聞こえてくる。若い男女の声だった。その中に、車輪の軋む音も混じっている。さっきの高校生と同じ学校の生徒なのだろうか、彼はそう思いながら、後ろを振り返る。予想通り、同じ黒っぽいブレザーを着込んだ、下校する学生の集団が蛇行しながらこちらに近づいてくる。今度は危険な目に遭わないように、その集団から出来る限り距離をとる。この街の日常もまた、彼に対してなんら脅威を与えるものではなかった。
 散歩にもそろそろ疲れてきたため、もと来た道へ踵を返して戻っていく。各地を征服する軍隊のように、虱潰しに道路の脇の、こまごまとした場所へ視線を投げかける。黄色や赤の小さな爆発が、ショウケースに収められているかのような、錆びた赤色のレンガ造りの花圃がある。酔っ払いや子供たちに踏み荒らされ、周囲には行く当てもなく土くれが散乱していた。
 数メートルごとに均等に配置された、背の高い電信柱の根元には、濃い染みが必ずついている。濡れているからなのだろう。犬のマーキングであることは容易に想像ができた。彼は情報を貪欲に得ようと、更に前方から後方へと過ぎ去る景色を観察しようとしたが、これ以上に新しいことを知ることは既になかった。
 次に曲がるべき道を予測しながら、彼はまだ荷解きのし終えていない、新しく住むアパートを目指していた。不器用に積木を組み合わせ、一晩中雨風に晒したような、あの築四十年ほどの集合住宅は、いかにも大学生にお誂え向きといった風貌を呈していた。彼は、彼の好きな映画のワンシーンを忠実に頭の中で再現してみせる。凪で静かな風景の中、三階の窓を開けてじっくりと街一面を見下す色白の若い主人公。彼だけの存在する世界で、群生する人々はただ輪郭を失った影になっていた。
 新築の住宅に囲繞されたそのアパートは、大学からそう近くない距離にあった。だからこそ、友人たちが暇を持て余して唐突に訪問してくる心配はない。これから住むことになる彼の部屋は、一階に並んだ五室のうち、三番目に位置していた。正面にある階段を通り過ぎて、錆びた鉄柵に沿いながら、ドアを横目に数えて進む。一番目のドアの前を過ぎ、そこから間も無く次の二番目の同じ型のドアが現れる。連続するベージュの辛気臭い鉄の板は、入室者に対して媚態を示しているような印象を与えた。三番目のドアの前に立つと、青年は自分だけに与えられた手触りの良い鍵を取り出して、鍵穴にゆっくりと挿し込む。
 ほの暗く狭い四角の空間に、窓から細い光が流れている。建設中のビルのように、堆く無造作に積まれた段ボール箱にはまだ埃は無い。未だ以前の住人の匂いが残っていそうなこの部屋には、青年一人しかいないはずだったし、また彼以外は決して居てはいけないはずだった。
 だがそこにあったのは、乳色の肌に黒い長髪を着せ、しゃがみこんだままじっとしている、身も知らない女だった。藍色のロングスカートから、ストッキングで糊塗された脚をのぞかせている。彫像のように微動だにしない、しかしあまりにも精巧すぎるその顔は、どこを見ているのかも理解できない。じっと体勢を壁の方に向けている。
 一瞬、青年はそれがマネキンを工夫して彼を驚かせようとした、一種の悪戯だと思った。実際、玄関を開けた家主を、幽霊に仮装した芸能人が驚かすといったどっきり企画を、以前テレビで見たことがあったからだ。しかし、驚嘆して後ずさりして暫くたった今でも、彼女はまったく動こうとしない。まるで自己の中で総ての事象が完結しているようだった。
 おそるおそる彼は部屋に入り、明かりを点ける。光源が増えたことで、室内の床や壁に貼りついた影はより薄く、乱れた。窓側の壁を見つめ続ける彼女は、それでも決して動くことは無かった。白い内装と、彼女が着ている白い雲のようなウールのセーターがうまく同化し、彼女の下半身と頭部がよく目立っていた。人間なのかどうかも怪しいせいで、彼は事態にうまく対処できずにいた。声を掛けようにも、もし彼女が人間なのだとしたら、一体どうやってここから追い出せばいいのか、全く方針が立てられないのだ。恫喝などして、隣室の住人が聞き入れたらどう言い訳をしよう。女性を外に追い出したなんてことを知られたら、仮に事情を話したとしても、醜聞には違いないからだ。
 それでも、彼は行動しなければいけない。なぜなら、ここは彼の所有地であり、彼の国家であったからだ。権利の一部を分譲するなど、決して考えることはできない。欲望を抱えた殺人者のように、乾いた腕を彼女の肩に伸ばす。
 感触はひどく不気味なものだった。それは非人間的な触り心地だったからではない。寧ろ、あまりにも人間的だったのだ。指圧を受け止める、骨格の硬さがはじめに伝わり、そしてそこから滑り落ちるような、なだらかな肌と筋肉の触感。怒った様子の無い、柔らかな体が、厚い服の繊維の下からはっきりと伝わってきた。しかし一方で、あまりにも溌溂さを欠きすぎたその体からは、まったく若さというもの感じられなかった。歴史のある時点で小さな挫折を繰り返し、そのせいで徐々にやつれ、疲れ、卑しさが増した老醜の香りが、青年の鼻をつく。
 触れられてもなお、杭を打たれたように彼女は動かない。もっと近づいて、青年はその横顔を覗いた。さっきまでは髪に隠されて、少ししか見えなかった彼女の顔を、よく観察する。不健康な白い肌は、濃い化粧で縁取られている。それでも消すことのできない、裂傷のようにはっきりとした、小さな皴と大きな皴。特に、表情がまったく変わらないせいで、切り込みを入れられた粘土細工のような印象を与える。瞬きを一切行わない、やつれた目と、溶けて伸びたような長い鼻。口は蛭のように、あんぐりと開かれたままだった。
 静止した人間に対する恐怖は、動く人形に抱くそれとまったく同一なものだった。そうあるべきと決定されたはずの前提が、静謐の内に突き崩された感覚。青年はたじろいで、呼吸を荒くする。
 青年はその場から早足で立ち去ると、携帯電話をポケットから取り出した。「一一〇」と「警察」の二文字が、メリィゴーランドのように、彼の頭の中を何度も回転する。
「はい、こちら・・・」
「もしもし、あの、うちに変な女がいるんです。すぐに追い出してください。」
彼は壁に依りかかりながら、警官の声を待たずに喋る。
「落ち着いてください。まず、住所と、お名前を」
「ああ、ここは・・・」
住所と名前、そして現在の状況を彼は何度も繰り返した。汗で手から携帯電話が滑り落ちそうになる。
「その女性は、どうやってご自宅に侵入したのでしょうか」
「いいえ分かりません。鍵も窓も締め切っていたし、まるで初めからそこに居たみたいでした」
「ええ。では、何か物を壊されたり、紛失しているようなことは?」
「それも、今見る限りでは全くありません。ただ、ここにい続けているのです。助けてください。追い出してください」
電話口で、少し沈黙があった。
「では、我々が出動する必要はありません。その女性が侵入した形跡も無ければ、何も被害を受けていない。そんなこと、対処する必要が無いでしょう」
「なぜです」
青年は顔をしかめる。
「なぜなら、我々が取り締まるべきは、犯罪と犯罪者であるからです。彼女がそこに居るだけで罪なんて、誰も法律に書いてません」
「しかし、ここはぼくの住むところで、ぼくの許可なしにあいつは居るんです。しかも、ぼくの思いつかない方法で、彼女は侵入してきたのかもしれないんだ」
「誰の住むところだろうが、そこに何が居たって悪いことじゃないじゃないか。確かに、犯罪でもすりゃ、我々は一目散にやって来てやるよ。けど、今のところ君には何も損は無いんだろう?だったら出来ることなんてありはしないさ。それに、侵入経路も把握できない家主がどこにいる。そんなに君がそこを自分の所有物だと主張するなら、少しは見当つくはずなんじゃないのかね。寧ろこちらとしては、君の方を侵入者だと疑わざるを得ないよ」
そう言われるなり、青年は勢いよく通話を切断した。
 彼は空気人形に穴が開いたかのように座り込むと、携帯電話を両手で鷲掴み、他に頼れるだろう知人の電話番号を探った。そしてここから一番近い場所に、同じく一人暮らしをしている大学の友人の番号に目を止める。今の時間、そいつは暇であるだろうし、連絡すればすぐに駆け付けてくれるだろう。人差し指の先端で、その番号に電話をかけてみる。
 彼は友人が出るまでの数秒間、青年は部屋全体を見回した。まだ慣れない匂いと光の中で、手を伸ばせば届きそうな天井は、身の丈より少し高い。体を支える左腕は床に接していて、手のひらにはひやりとした冷たさが伝わってくる。洗えば消えそうな、前の住人の落書きもある。段ボール箱から広げられた本や小物をどこに置こうか、そればかりを考えてしまう毎日。
 青年は、友人が電話に出ないまま、携帯電話の電源を切った。この領土の中に、決して他人を侵入させず、全てを統御しようとするには、誰の助けも借りてはいけなかった。
 立ち上がって、あの女の方へ歩いていく。覚悟は決めていた。決断と実行には必ず犠牲がつきもので、それを無視していては、絶対に勝利は勝ち得なければいけないと、彼は自己催眠のように反芻し続ける。彼女の肩に手をかけ、力いっぱい手前に引く。爪を立て、わざと痛みも加わるようにした。
 バランスを崩した彼女は、しゃがんだまま後ろに転倒し、石を打たれたような音をさせて床に頭を打った。青年に一瞬罪悪感が胸に響いたが、より大きな態度でもってそれを覆う。今度は両手でそのひ弱そうな片腕を掴み、ドアの方へ向かって一気に引きずった。何の抵抗もない彼女は、ただ粗大ごみのように重々しい。背中と床に挟まれて、彼女の髪が何本か抜ける。後で掃除する必要性を青年は感じた。とにかく、ここから彼女の居た痕跡全てを抹消しなければならないと、野蛮な儀式を行う前のように、青年は激しく自分に言い聞かす。
 ドアを開き、外に誰もいないことを確認する。女を部屋の外に押し込み、急いで青年はドアを閉めた。拳銃を発射するような音が、大きく響き渡る。これを聞きつけた近隣の住人がやってくる可能性をほとんど考慮せずに、彼はドアの鍵とチェーンを大袈裟に閉めた。
 脳みそを掻きだすように、髪の毛をくしゃくしゃにする。落ち着きを取り戻すために、部屋の中央に寝転がる。腹を呼吸で膨らませて、埃まみれの空気をいっぱいに吸い込んだ。暫くじっとした後、手足を大の字に広げた。女のいないこの部屋で、未然のまま展開された透明な空間を、彼は甘受できていた。
 その夜は、女のいない時間を青年は楽しんだ。長い暗闇に空と外が満たされたが、今この瞬間、この部屋だけは、強い電光と青年の描いた影がくっきりと映しだされていた。荷解きは半分だけ終わり、小さな都市の竣工は着実に進んでいた。
 翌日。朝日が街を澄明に染め上げる。部屋の中は予感に溢れ、窓からは光が差して青年とその周りの物の表面を僅かに焦がした。欲望は外へ発散されつつわだかまり、四方で渦を巻いていた。その渦はあらゆる壁にぶつかり、反射し、お互いを擦れ合わせている。
 白く流動する、ミルクのような夢を青年は見た。ぎこちなく起き上がる。そして痙攣しながら開かれた瞼を通過して目に映る光景は、彼にとって言うまでもなく、恐怖すべきものだった。昨日の出来事が複製され今朝に貼り付けられたかのように、あの時と同じ場所に同じ体勢で、彼女はいた。萎びた野菜のように、若くない体を部屋の片隅に置き、日光を好きなだけ浴びている。
 彼はまだ夢を見ているのではないかと疑った。しかし、昨日の信じがたい出来事が現実であるならば、今朝もまた現実であるということは可能性として十分あり得る。
 今だけ、カラスの鳴き声や車の騒音、他人の囁き声は聞こえない。青年の一挙手一投足、心臓の鼓動すらも大仰に浮き立つ。起きたばかりでまだうまく歩けない彼は、小さな本棚や机に手を添えながら、まだ解包していない段ボールに躓かないよう、ゆっくり彼女に忍び寄る。昨日彼女がいた場所には、確か小型のテレビが置いたはずだった。しかしいつの間にかそれは退かされ、元の場所から二メートルほど先で横倒しにされている。
 小型テレビは、実家で彼が物置から見つけたものだった。埃を被っていたものの、電源に接続して調整さえすれば、電波もちゃんと受信できた。廃棄され隠されたガラクタで、自室を彩ることは、彼の嗜好を強烈に刺激させた。所属を喪った同士が絡み合い、再構築させることによって生じる、真新しい空間が、形而上的にもアクチュアルな様態にしても、一人暮らしを満足させるための必要最低限の要素だったのだ。
 憤然として彼女の首筋を掴むと、今度は床に抑えつけ、青年は声を枯らすほど怒鳴った。
「ここはおれの部屋だ。おれの居場所だ。おれが金を払ってこれから作り上げようとする世界だ。なんで邪魔をする。なんで居る。出てけ、出てけ」
そして今度は長い髪の毛を束にして握り締め、顧みることなく再びドアの方へ引っ張り出そうとした。今度は急いでいたせいで、一層に力を加える。歩くたびに踏みしめる床に、彼女の髪の毛が何本も、引き抜かれて落ちていった。玄関にたどり着くころには、頭皮ごと剥がれているかもしれない。青年はそんなことも考えつつも、もはや他人を労わる気持ちなどすっかり消失していた。
 玄関まであと二歩と半分ほど。朝はちょうど登校や通勤の時間と重なって、誰かに目撃される可能性は十分あったが、それは今彼が直面している事態と比べれば、後回しに出来るような事柄だった。
 突然、あの女の重みが無くなる。髪の毛の触感は未だに残っていた。遂に頭皮を引き剥がしてしまったかもしれない、と彼は一瞬そう思い、後ろを振り返った。しかし予測とは裏腹に、そこには彼女自体がいなかった。だらりと手から垂れさがる髪の毛の束。青年は辟易した。廊下の中央で、さっきまでいたはずの女が一人、消えた。しかし発端もまた唐突であったのであり、彼女の唐突な蒸発が特段に驚くべきことであったのかというと、そうではなかったのである。
 女のいた場所には、影すら残っていない。あるのは光沢を見せる髪の毛だけ。青年は邪魔そうに、それをゴミ箱に放り込んだ。彼女がそこにいたという唯一の根拠を手放し、すぐに忘れようとした。今朝は九時から授業があった。彼は事後の余韻も消えないうちに、急いで準備をしはじめた。残った荷物は、今晩の内に全部広げてしまおう。そうやって、常に前向きに、ポジティブに考えようとする習性は、彼特有のものだった。
 しかし家から出て、大学にいる間、あらゆる複数の事柄が彼の不安を捕らえて離さなかった。まず、早朝のあの騒ぎが誰かに聞かれていた可能性。帰宅したら、警察が待機しているかもしれない。また、あの女が戻ってくるのではないのかという予感。そして、もしかすると自分自身はどこか頭がおかしくなっていて、奇妙な幻覚や妄想に取りつかれているのではないのかという疑惑。更に、道を見失った子供のように、わけも分からない半透明なものに心臓が脅かされる不安。そういった感覚が、終始彼の身体に着被さっていた。
 それを振り払うかのように、帰宅中に必死で彼は街の中を闊歩した。引っ越してきてから、幾度となく繰り返し見てきた景色を、まるで初めてかのように、散々に視線を移しながら歩き続けた。しかし、一昨日よりも昨日の方が味気なく、昨日よりも今日の方が、街並みは退屈さに満ち溢れていた。彼の行動は既に、信仰上の祈りによく似ていた。
 途中、買い物袋を持った主婦とすれ違った。何も変わったところのない、普通の主婦だった。しかし青年は、いつもなら無視するこの女性のことが、気になって仕方がない。全てを収めたはずの箱の中から、一つだけビー玉が零れ落ちてしまったような寂寥感が彼を吹き晒す。夕焼けに呑み込まれてどこも赤っぽくなり、主婦の背中もまた、例に漏れることなく赤を抱えていた。
 後方から高校生たちの漕ぐ自転車の群れが近づいてくる。昨日と同じ男女なのだろうか、と青年は思いながらそれを観察する。途中、集団の内の一人と目が合った。勘違いをされては堪らないと、思わず顔を伏せる。そしてまた、元の速度で歩き始めた。
 この街の全てを押し潰してもまだ平気な顔をしていそうな、決して丸くはない太陽が見知らぬ家々の屋根と屋根の狭間へ沈んでいく。夜を迎える準備をしはじめた住宅から、光が漏れはじめる。それぞれが燈火を握り締めて、決して離そうとしない。求められる以前から既に、絶対に手中に収まろうとしない拒否を、この街は示している。作用の無い反作用に直面した青年は、夕闇の中で背中を少しだけ丸めた。
 帰宅した青年は愕然とした。実家から持ち込んできた段ボール箱は部屋の隅に寄せられ、それらが元あった場所には三面鏡付きの化粧台、女性用の洋服、雑誌、雑貨。そして窓の脇にはあの女・・・。香水の甘々とした匂いが鼻につき、誤魔化しの効かないような古臭さを直感する。自身の魅力が未だに燦然としているのだと思い込みながら、次第に腐乱していく女性の老醜を、彼女は正に体現していた。
 青年はその場にへたりと崩れた。なぜ、どうやってあんな物を持ち込めたのかという疑問よりも先に、激しい虚脱におそわれる。思い通りにするために、全てを託して積み上げてきたこの部屋が、名も知れぬ人間なのかも分からない、幽霊のような熟年の女に征服されてしまったという事実が、青年の恐怖を振幅させる。
 いつの間にか、青年は泣いていた。
 一人暮らしへの憧憬は、あの女の登場によって斯くも容易く瓦解した。彼は泣いている合間、いつも胸に抱いていた例の映画を追想し続けた。今にも沈んでしまいそうな大地の上に立つ、腐食したアパートの一室。どうにもならない未来を、放心した表情で受け止める一青年の肖像。エロスや暴力からも完全に隔離された、蒙昧な青春の数ページが何度もめくられる。無数に立ち並ぶ街にとってその青年はあまりにも無力で、諦観でしかそれを具体的に表現することができない苦痛が、作中に青い色彩となって表される。
 しばらく、青年は男の癖に泣き続けた。この数年間、彼は一度も涙を流したことが無い。しかし一度に箍が外れてしまうと、止めどもなく涙が流れてきた。部屋の中には女と青年の二人だけ。その場から一歩も動くことはなかった。
 いつしか青年も女のように、ただ茫然と壁を見続けるようになった。しかしその間も、思い出したかのようにすすり泣く。しかしその表情は、まるで自分自身の不能を嘆いているかのような風体もあった。既に、彼にとっての彼女の存在は脇に追いやられ、なんら大きな意味をもたなくなっていた。
 青年は一個の人間として、孤独な世界に闖入してしまった。居場所を喪ったからではない。寧ろ、初めから自分だけの領土そのものが無いことに、気が付いてしまったのだ。その世界では、本も、テレビも、何もかもが役に立たない。真の絶望と呼んでも違いはないだろう。あれだけ泣いたのに、近所から苦情は全く無い。青年の息は途切れ途切れになる。死ぬことはない。しかし、死ぬほどの長い時間が、今後の彼の人生を突き刺そうとしている。
「寂しいのね・・・。」
風船に真水を注入するような、繊細で横柄な声が聞こえた。青年は振り返った。
 翌日、雨が降った。雨粒が路地を打ち付ける音は壁となって、人々の会話を疎外する。アスファルトの上に、どこからともなくやって来た油や土くれが入り混じりあう。飛ぶ鳥もいない分厚い雲の下には、仕方なしに外出する人のさす傘が、色とりどりに流れていく。囁き声は、殆ど聞こえない。街中が下水道の臭いを発していた。
 青年は、自ら領土を手放した。いや、元々あの部屋は借り物で、彼の所有物ですらなかった。ただ、決して支配などあり得ないということに気が付いただけなのである。以降、彼の友人たちは、彼がある女性と同棲しているという噂を聞くようになった。真偽は不明だったが、確かに彼と女性が並んで歩いているのを目撃したと語る者はいた。
 どこにでもあるような、ひどく具体的な日常が、平坦な舗道の上に並べられている。誰かが、誰かを生かし続ける不思議な円環の中で、青年と女は、取り立てて特殊な関係になることは決してなかったのだ。

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