Summer of '06
「閉めるね」
声が聴こえて、ベッドでぼくはひとりになった。頭からつま先まで、全身を毛布で包んだ。ぼくはまだ起きていたかったけど、まわりは瞼を閉じたみたいで、暗くて何も見えない。部屋の灯りも消えているから、ほんわりとした光が毛布を透かして内側へ漏れてくることもなかった。もう夜の九時だ。
低い音が聴こえる。パパの声だ。高い音が聴こえる。ママの声だ。二人が何を話しているのかはよく分からないけど、きっとぼくに関係する内容に違いない。昨日の夜、今よりずっと暗い時間、ぼくが目を覚ましてリビングへ行ったら、パパとママは来年ぼくが小学校一年生になることについて喋っていた。今日もきっとぼくの話をしているはずだ。静かさの底に流れる、聴き取れないパパとママの声は、なぜだかひどく不安で、ぼくはひっそりと両耳を覆った。
走る足音がする。かかとで思い切り床を殴りつける足音だ。それが六つも七つも連なっていて、めちゃくちゃにピアノを弾いたみたいになっていた。ドアを開く音だけ慎重だった。耳を塞いでいても、すぐに誰だかわかった。
「ノッコもう寝てる」
ぼくの名前だ。こっそり毛布から外を覗こうとしたが、よく冷えた部屋の空気が隙間から滑り込みそうな気がして、すぐに諦めた。ぼくには年上のお姉ちゃんが三人いて、三人はとても仲が良い。三人はいつもよく笑っている。縮こまっているぼくの周りを、ひときわ高い声がくるくる回転しているから、ぼくはなんだか大きな耳の奥の方に閉じ込められている、そんな気がした。
膝を少し曲げると、親指の爪先が毛布のほつれた糸に引っかかった。力を入れても、糸は切れず、足の指先は少しずつ絞められていく。ぼくは仕方なく手を使って糸を外した。まだ眠くはならない。いつも眠る瞬間を覚えていようと努力してるけども、自分のことなのに、いつのまにか寝ている。そして寝ているあいだのこともよく覚えていない。スイッチを押すと、光ったり消えたりする電球みたいだ、ぼくは。ベッドに入ってからどれくらい時間が経ったのかはよく分からないけど、まだ囁きあっている三人の声をできるだけ遠ざけようと、ゆっくりと寝返りを打った。
土曜日の朝は、いつもぼくだけが先に目を覚ます。蝉の声がうるさかった。毛布は足元で丸まっている。少し暑い。ベッドから降りて、部屋を出ると、素足で触れる廊下はやけに冷たくて、まだ眠りかけている頭に少しだけおどろきを与えてくれる。けれども、やっぱりカーテンで閉め切られた部屋は夜の暗さの余韻を含んでいて、この家もまだ寝ているような気配がした。まだパジャマを着たままで、顔も洗っていない。 「今日はケロロ軍曹だ。ケロロ軍曹だ」と、誰も聞いているわけはないのに呟いた。だけど、聞く人が誰もいないから呟いたのかもしれない。
リモコンは生温かかった。昨日のパパの手のぬくもりがまだ残っているのかもしれない。パパとママが起きないあいだにテレビを観るのが、なぜか悪いことをしてるみたいだった。
テレビからは毎週欠かさず視聴しているアニメの映像と音声が流れていた。重くて四角い画面を見ていると、ずっと体験してこなかった、全然知らない世界を見れる。一日中テレビに釘付けだ。ぼくはなんだか、「テレビ教」の神様を信じてる人みたいだ。頭はまだ寝ぼけているけれど、リモコンで音量を上げた。うるさくて誰か起きてくるんじゃないかと、不安になる。ぼくはテレビを見続けた。
最初にママが起きた。そのあとはひとりずつ、ぼくの家族が目を覚ましてリビングまでやってきた。蛇口から落ちた水が食器とぶつかって、シンクの底を這い回る音が、背中の向こうから響いてくる。パパは起きてそのまま新聞を読みはじめる。「首相」という言葉が書いてあったけど、それが偉い仕事だということしか分からないし、ぼくにはまだ難しいことしか書かれていないんだな、と思った。そして、こういうときのパパには、近づきたくない。なんでかは分からない。ほかの三人は、ぼくを置いてどこかへ行ってしまった。プールへ泳ぎに行ったのかもしれない。
ママが掃除機の電源を入れた。空気ごとごみを吸い込むうなり声が部屋中をふるわせると、ぼくはここにいるだけなのに、怒られている気になる。テレビはこのときだけ無音になる。周りのすべても無音になった気がした。買ったばかりの、きれいなクッションを、ぼくは強く抱きしめた。柔らかかった。
ママの動きが止まったのは、インターホンが鳴ったすぐあとだった。掃除機は萎むような音を立てて、急にぼくの耳から遠ざかっていく。誰かが来たことに反応して、いっせいに首を動かしたぼくたちは、むかしテレビで見た、サバンナの毛だらけの動物みたいだった。
「お兄ちゃんだよ」
ママがぼくにそう言って、ようやく思い出す。そういえば今日は、ずっと年上のあの人がやって来る日だった。何歳離れているんだろう。あとで訊きたいな。
窓からこっそり顔を出すと、パパがもう玄関に立っていて、何か喋っているのが見えた。あの人はパパよりも背が低いせいで、ずっと目を上の方に向けながら、楽しくも、悲しくもなさそうな顔をして話を聞いているだけだった。二人のうしろには真っ青な自動車が停まっている。その半分がコンクリートの道に突き出ていた。太陽の光を反射して、ぼくの目には車がぎらぎらして映ったけれど、タイヤから漏れたみたいに平べったく広がる影が、なぜだかとても怖かった。窓の外は、よく分からないことだらけだ。
急にパパが大きな声を上げて怒りはじめた。ときどき、ぼくもパパから怒られるけど、そのせいで大声を聞くだけで、体の中を冷たい水が流れるみたいな気持ちが、お腹の真ん中から、耳のうしろの方まで迫り上がってくる。少しだけ、窓ガラスから離れた。
次に見たときには、あの人が運転する車が、うちの玄関の前でなんとか停まろうとしていた。すごくのんびりと動いていた。ぼくは家にいるのが好きなのに、「早くしないと遅れちゃうよ!」と叫んでしまいそうになる。このときだけ、時間がいつもより素早く進んでいるみたいだった。
しばらくすると、またパパが怒鳴った。思わず、ぼくは背筋を伸ばす。けど怒られたのはぼくではない。今度は逃げるみたいに自動車が前へ進みはじめた。大声はまだ聞こえる。
車が何度か前後に動いたり、左右へ曲がったりする光景は、なんだかつまらなかった。パパの声とエンジンの音が聴こえるばっかりで、あの人がいまどんな顔で何をしているのかよく分からなかったし、これから何が起こるのかも知らないせいで、ぼくの関心はまたテレビに戻りつつあった。ママはまた台所で立っている。ぼくはテレビを見て、少し笑った。
あの人は十九歳だった。ぼくと十三歳も違う。髪も服も、ぼくの友達やその家族なんかより、ずっとかっこよかった。ぼくが顔を見上げると、彼は口をゆっくりとねじるように、静かに話しかけてくれた。
「おはよう」
おはよう、とぼくも言った。雲は空の端っこに集まっていて、上には青色だけがぽかんと空いていた。今日は昨日よりも、泣きそうなくらい、ずっと暑い。
お昼過ぎ、みんなで出かけることになった。買い物もするから、少し遠くの、ショッピングモールへ車で向かう。パパとママは同じ車に乗り、ぼくはあの人が運転する別の車に乗った。途中でパパたちはプール帰りの三人を迎えに行き、そのまま無理矢理連れて行った。ぼくたちは二人きり、座席の上で揺れていた。
「これ、レンタカーなんだ」
運転しながら、あの人はぼくに言ったけど、一度目はうまく聞き取れなかった。
「これ、レンタカーなんだ」
今度はもっと大きな声で言ってくれた。けれど、「レンタカー」についてどうやって返事をすればいいのか分からなかったから、ただ小さく頷くことしかできなかった。
「いくらしたと思う?借りるのに」
何も言わないでいると、自然に二人は話さなくなった。
車の中には小さなテレビが付いていた。運転席と助手席のあいだと、そのうしろの、上から取り付けられたモニターだ。運転席のそばにある画面には、行く先へ案内する地図が映っていた。パパが運転している車にはこんなものなくて、いつも遠出するときは大きな紙の地図を開きながらハンドルを握っていた。「レンタカー」は、すごい車らしい。
人や車と通り過ぎるたび、ぼくは目でそれを追いかけた。あの人が車を走らせるせいで、遠くへ遠くへ、すべてが過ぎ去っていくけれど、ぼくがいる場所はどうやらずっと車の中で、勝手に外へは出られないようだった。もちろん、いま道路へ飛び出しても、大怪我することは分かっている。
追い越していく人たちとは、またどこかで会えるだろうか。あの女の人きれいだな。あの男の人かっこいいな。次はもっとゆっくり話したいけれど、また会える日は何年先の話だろう。来年だろうか。十年後だろうか。二十年後だろうか。そのとき、ぼくは何をしているのだろうか。パパたちはいつも未来について暗い話をする。だからぼくの未来も真っ黒な気がするけど、それでもこのあとすぐご飯が食べたら、悩み事も、きっとすぐ忘れられると思う。
頭の上にあるテレビの電源を入れると、映画が流れた。ちょっと昔の映画だ。女の人と男の人が恋をして、東京の街を走ったり、カラオケで歌ったりしていた。どちらも外国の人で、外国の言葉を使っていたけれど、日本にいるから、周りの人たちはみんなぼくみたいな顔をしていた。
いつの映画か分からないけど、渋谷はこの前パパと出かけたときと変わらないな。最近のなのかな。いま映った道はぼくも通ったから、なんだかぼくも少しだけ映画に出られたような気になれる。パパは、むかしの渋谷といまの渋谷は全然違くて、ここはすぐに街のようすが変わるって言ってたけど、ぼくのいた道もそのうち無くなって、違う景色に飲み込まれちゃうのかもしれない。そしたらこの映画でしか、ぼくはあの街を見ることができなくなっちゃうんだろう。題名をあの人に訊いたけど、難しい英語で、全然覚えられなかった。
ショッピングモールに着いてすぐ、パパとママたちは新しい洋服を買いに、ぼくたちと別々に行動することになった。二人取り残されると、三人や四人でいるよりずっと寂しい気持ちになる。
「とりあえず、お昼ご飯を食べよう」
あの人はラーメン屋さんにぼくを連れて行った。正直、ラーメンは苦手だ。ぜんぶ食べ切れたことがない。
「そうだっけ。珍しいね」
あの人にそう言うと、しかめっ面でそう返された。けどもう注文してしまったし、食べるしかない。お子様ラーメンが届いて、うまく食べようとしたけれど、やっぱり最初の十口で飽きてしまった。あとは、おしぼりをいじったり、隣の席の人のラーメンを覗いたりしていた。あの人は、何も言わずにずっと麺をすすっている。
お店ではお客さんも店員さんも、みんな忙しそうに動いていた。みんなぼくより年上の人たちばかりで、中にはスーツを着て、すごい速さでラーメンを食べている人もいる。ここでも食器がぶつかり合う音が聞こえた。見えない何かが、ぼくとは関係のないところで止まったり、動いたりしている。あの人も、しきりにケータイを見て、たまに時間を確認しながら、箸をカチカチ鳴らして、ラーメンを頬張っていた。ぼくだけが置いてけぼりにされたみたいで、退屈だったけど、あの人を見ていると、まだ大人にならなくてもいいと思えた。ぼんやりと店の外を眺めていると、いつのまにか会計は終わっていて、すぐにぼくたちは店を出た。
まだパパたちとは合流できないらしいから、ゲームセンターで時間を潰すことになった。UFOキャッチャーをしたかったけど、お金がもったいないってあの人には断られた。空いていたから、しばらくエアホッケーをするらしい。ゲームが始まると、大きなボードの表面から空気が噴き出してきて、触ってみると、手の平いっぱいに冷たさが広がって、すごく気持ちがよかった。一回、ここで寝てみたいな。
あの人は全然手加減をしてくれない。ぼくは必死になって腕を動かしたけど、どうしても勝つことができなかった。円盤はとても軽くて、下から空気が持ち上げているから、少し浮いているらしい。それが軽い音を立てながら、ものすごいスピードで滑って、ボードの上を行ったり来たりしている。頭の中はゲームのことでいっぱいになっていた。けど、結局あの人から得点を奪うことは全然できない。
タイムオーバーになる。空気は出なくなって、円盤も静かに着地した。もう一度手で触れてみると、汗まみれの痕が表面に残るだけだった。あの人は僕に勝ったのに、全然嬉しそうな顔をしていない。どこか遠い世界を見ているみたいに、ケータイを何度も確認していた。ゲームセンターから出ると、知らない人の手がぼくにぶつかった。何も言わずにその人はどこかへ行く。痛くはなかった。ただ、よく分からないけど、ぼくがこれまで思ってたみたいな、世の中の面白さが、ちょっとだけ減ったみたいだ。サラリーマンが電話をしながら歩いてる。
「御社に関しましては、弊社の方から確認項目に目を通しまして、再度連絡させていただきます。また、先日弊社系列の工場で人為的な事故が発生いたしまして、弊社としてはその対応に追われているため、今回は御社とのご契約も例年よりわずかに後ろ倒しにさせてしまいました。申し訳ございません。金利の引き上げについてですか。色々と予防策や事後の策も練っておりますので、その点に関してはご心配要りません。開発との折衷なので、結局は。えぇ、えぇ、まことに申し訳ございません。よろしくお願いいたします」
しばらく聞いてはいたけれど、そこで会話は終わったらしい。ぼくはもう早く帰りたくて仕方がなかったから、あの人を声をかけようとした。けど、あの人もいつのまにか隅の方で電話をしている。真剣そうだった。
直接パパたちに会いに行こう。きっとまだ服を買っているだろうし、いつも同じ店だから、ぼくでも歩けばすぐ合流できるはずだ。ここから、一個上の階にあるお店だ。歩き出すと、体が軽く感じられた。けど、この軽さは楽しいものじゃない。自分がアイスホッケーの円盤になったみたいだ。行こう。
パパたちと会ってすぐ、ぼくはゲームセンターに連れ戻された。そこでパパやママからたくさん叱られた。勝手に動いちゃいけないらしい。迷子になったら大変だと言われた。けど、ぼく以上にあの人が怒られていた。ショッピングモールにいるほかの人たちのことを気にせず、パパは怒鳴り続ける。ぼくは恥ずかしくて、悲しくて、怖かった。側から見ているお姉ちゃんたち三人は、にやにやしながらこっちを見ている。そっとあの人の方を見ると、顔が白くなっていた。パパから怒られたから落ち込んでるのかな。両腕は力が抜けてだらんと下がっている。うしろから押したら、そのまま倒れそうだった。
その夜、あの人も泊まることになった。ぼくは相変わらず先に寝かされて、遅れてあの三人がやって来る。今日は疲れていたのか、あまり喋らないまま眠っていた。けど、ぼくだけは今日一日に体験した不思議な気持ちの波に揺られて、うまく眠ることができない。ふだんは眠りたくなくても眠ってしまうけど、いまはその逆だった。暗い部屋で、じっと横になっている。
しばらくして、部屋に誰かが入ってきた。パパでもママでもない。そのままベッドまで来ると、ぼくを避けるようにして倒れ込んだ。みんな寝ていると思ってるらしくて、ひとりで何か呟いている。頑張って耳を澄ますと、ようやく聴き取れた。
「いるのかな、神様」
全然想像もしてなかった言葉が出てきたから、思わず返事をしてしまう。
「いるよ」
小さな声で口にした。
あの人はぼくがまだ起きてることにようやく気づいて、こっちを見たけれど、会話を止める気はないらしくて、今度はぼくに話しかけてきた。
「どこに?」
「色んなところ」
「どんな神様」
「知らないよ」
少しだけ時間が流れた。クーラーの風がぼくのほっぺたを冷たくさせるから、昨日みたいに毛布の中へ潜り込む。
「その神様はおれに何をしてくれる?」
「色んなことだよ」
「色んなのって」
「知らない。色んなことだよ」
そのまま、あの人はベッドから起き上がって、部屋を出て行った。怒ったのかな。それが気になって、また眠れなくなってしまう。
また時間が過ぎた。なかなか寝れないから、一度リビングに行こうと思った。ゆっくり足を伸ばして、暗闇を歩いていく。途中で、三人のうちの誰かの足を踏んだ。「痛い」と声が聞こえたけど、ぼくは謝るのが嫌だったから、そのまま何も言わずに廊下に出る。
リビングにはまだ人がいた。話し声が聞こえる。その話が聞きたくて、こっそり覗くと、足元に落ちてる新聞が最初に目に止まった。字はよく読めないけれど、写真でいまの総理大臣が映っているのだけは分かった。パパはこの人のファンだ。
テーブルを囲んで、パパと、ママと、あの人が座っていた。けど、ぼくが覗いた途端に三人は黙ってしまった。さっきの会話を思い出して、これも神様か誰かの仕業なのだな、と考える。ただ、テーブルの上には細かい字がいっぱいの、難しそうな書類がたくさん置いてあった。話し合いをしているのかな。その中であの人だけが、喋りたそうな顔をして、けど口に出せないものを胸の中に溜めているみたいに、モゾモゾと、寂しそうな仕草をしていた。それをママが静かに見つめてるけど、結局はあの人の手助けをしてあげることもなく、ただ、見てるだけだった。話しを盗み聴きすることもなく、ぼくは部屋に戻った。
翌日、起きた頃にはもうあの人は家を出ていた。理由は誰にも聞かなかったし、誰に聞いても教えてくれなさそうだった。ママがまた掃除機をかけているけど、それに負けたくなくて音楽番組にテレビのチャンネルを合わせる。ちょうど、チャットモンチーの「シャングリラ」が流れていた。ぼくはこの曲が好きだ。けど、今日はなんだか少し寂しい気持ちばかりがお腹の底でぐるぐると回っていた。
夏はまだ始まったばっかりだ。けどぼくはこの夏を、ずっと楽しく過ごせるとは思えなかった。夏が過ぎたら、すぐ寒くなって、また暖かくなる頃には小学校に入学してるからかもしれない。小学校を卒業するころには、大人になれてるのかな、いまよりも分かることが増えてるのかな。けど、いまのぼくが思いつく大人は、あの人しかいなかった。だったら、まだしばらく子供のままでいいんだと思う。そう考えながら、ぼくは誰にも聞こえない声で、そっと歌っていた。
夏は思うより早く終わって、秋になって、冬になった。そのころ、ぼくはあの人が死んじゃったということを知った。顔はよく思い出せなかったけど、お葬式であの人の写真が飾ってあるのを見れた。写真の中でも、白い顔をしてた。みんなは泣いていたけど、ぼくはあの人のことをよく知らないし、知らない人たちに取り囲まれて、いい気持ちはしなかった。お姉ちゃんたちも、何も知らないはずなのに、なぜか泣いている。
「男の子はノッコちゃんだけになったね」
おばさんがぼくに言った。ぼくは黙って頷いた。それ以外に、なんて反応すればいいんだろう。ママはぼくのことを抱いてくれた。黒い服がゴワゴワしていたけど、すごく温かかった。パパは、ひとりで泣いている。誰もパパには話しかけなかった。ぼくも話しかけなかった。
お坊さんが長い話をして、あの人に変な名前を付けたあと、すぐ帰って行った。ぼくたちは残されて、お寿司やらピザなんかを食べたけど、あんまり美味しいとは思わなかったから、あまり食べなかった。ほかのみんなは、よく食べて、よく喋ってた。その中で、ぼくはただ、早く帰りたいとばっかり考えてた。
日にちが少し過ぎて、あの人が住んでたアパートにパパと一緒に行った。住んでたころのままになっていたけど、部屋には何もなかった。机と、冷蔵庫と、タンスと、棚だけで、しかもそのほとんどが空になっていた。だからぼくたちが持ち帰るのは、段ボール二個分くらいの量しかない。パパが外にいるあいだ、ぼくはあの人の机の引き出しを開けてみる。そのとき、なにかに引っかかるような音がした。手を入れて、中を探ると、茶色い封筒に入った手紙が、一枚だけ出てきた。たぶんあの人が書いたのかな。そう思って紙を見ると、ぼくでも読める字で、短い文章が書いてあった。なんとなく字を目でなぞった。
どこにもいたくない。
だれにも見られたくない。
あの人が思っていたことがそのまま書いてあった。だから死んだのかな。そのまましばらく立っていると、近くに公園がることを思い出した。ポケットに手紙をねじ込んで、アパートを出る。寒くなると、すぐ夜になる。さっきまで明るかったのに、もう暗くなりはじめていた。パパはいつのまにかいなくなっている。ドアを閉めると、錆びた階段を駆け降りて、そのまま公園に向かって走った。小さな公園だけど、隅には花壇があって、そこの土は柔らかかった。瞬きをするあいだに、到着する。遊んでいるほかの人たちを無視して、花壇の土を掘っていく。冷たくて指先がうまく動かないけど、しばらくしてようやく物を埋めるのには十分なくらいの穴ができた。そこに、あの人の書いた手紙を埋める。
立ち上がると、もう空は暗くなっていた。外燈だけがぼくのことを照らしている。周りには誰もいない。パパはどこへ行ってしまったんだろう。ぼくはアパートへ戻ろうとしたけれど、急にこの前の夏のことを思い出した。勝手に動いたら迷子になるんだ。いまも迷子だけど、また動いたらよけい探しにくくなるかもしれない。だったら、ここでじっとしていよう。そう考えて、立ち止まり、くるりとうしろを向いて来た道を戻る。けど、しばらくして、やっぱりアパートまで近いから、戻った方がいいと思い、歩き始める。するとまた同じ考えが頭に浮かんで、立ち止まり、くるりとうしろを向いて来た道を戻る。けど、しばらくして、やっぱりアパートまで近いから、戻った方がいいと思い、歩き始める。するとまた同じ考えが頭に浮かんで、立ち止まり、くるりとうしろを向いて来た道を戻る。けど、しばらくして、やっぱりアパートまで近いから、戻った方がいいと思い、歩き始める。するとまた同じ考えが頭に浮かんで、立ち止まり、くるりとうしろを向いて来た道を戻る。
ぼくはしばらくそれを繰り返していた。