(創作)J・アーノルドの手紙と小説

 いまぼくが書こうとしている文章は、本当はもっとずっと長く、大きなものになるはずだった。そう決心したのは何年も前で、ぼくはまだ野心と希望ににあふれた人間だったから、そうすることを当たり前だと思っていた。けれど、時間はおそろしいものだ。「あの経験」以外を除いてすべては何も変わらず、ぴくりとも動こうとしなかったのに、驚くほどの早さで月日は流れて、結局ぼくはタイプひとつ触ろうとせず、机に向き合おうともしなかった。―いや、もしかしたら「あの経験」を起点として世界はようやく時間との相関関係を見いだしたのかもしれない。少なくともぼくは、(友人たちからはそう言われていた)速筆ぶりを発揮することができなくなってしまうくらい、しばらく打ちのめされていたんだ。本当のことだ。
 いま思えば「あの経験」にぼくは甘えていたのかもしれない。ようやく書きはじめられたのも、きっと、正直ぼくの貯金がすっかりゼロになってしまって、こうして以前なら決して承諾しなかった小さな雑誌の依頼にすら喜んでしまえるほど貧窮してきたからだ。
 実を言えば、さっきから何度も登場する「あの経験」は、これから書こうとしている物語と関係がある。むしろ、「あの経験」そのものが物語のモデルになっているんだ。はじめから種明かししてしまうのはきっと幻滅を呼んでしまうだろうけど、本当ならあれは物語ではなく、事実をそのまま描いたノンフィクションにするはずだったんだから仕方ない。だから当時はもっと長く、大きくなるはずと、ぼくは考えた。完成させられればきっとピューリッツァー賞だって夢じゃなかったし、実際にあの頃のぼくは若手の作家のなかでも一番売れていたから、今度こそ確実にもらえる自信があったんだ。
 とにかく、結果的にぼくはどうしても「あの経験」に関する文章を完成できなかった。だけど短くて、あるていどごまかしや省略が可能なフィクションなら、なんとか書けると思う。どう評価するかは読者に任せるしかない。読めばきっと、文字通りぼくが打ちのめされた理由も分かるだろう。ぼくもきっと、当時はとらえられなかった瞬間を、そろそろ色褪せはじめてきた記憶のなかでなら、うまく言葉で掴むことができるかもしれない。


「ゆれ、うごく」 J・アーノルド

 ベトナムはひどく暑い。フランス人と結婚していた大叔母は、夫と過ごしたかつての植民地についてよく語ってくれた。ベトナムは暑くて湿気が強く、いるだけで頭のなかが蒸せてしまう。幼少期の私は大叔母の語り口でしかアジアの片隅にある小さな国を知ることはなかったから、いつも空想で思い描くのは、漫画のターザンが活躍するような騒々しいジャングルの世界だった。アジア人は背が低くて声が高い。アジアのターザンがいるならきっと、妙ちくりんな格好で雄叫びを上げているにちがいない。このころから私はこういった冗談話を話すのが好きで、家族もよく真剣に聞いては、声を出して笑ってくれた。
 そのおかげか大学を出ると、私はすぐ新聞社の記者として働きはじめるようになった。現実の問題にあまり関心がなく、どちらかと言えば(これは社内で悪口になっていたが)感想を書くことが得意だった私に、くだらない世間のゴシップ記事は向いていた。だが就職してしばらく経つと、編集長はとうじもっとも政治的だった現場に出向するよう、私に命じた。それが一九六八年のベトナム取材だった。
 当時は世界中でデモや暴動が多発していた時期で、一方に主張へ極端に寄った記事は批判を免れない。編集長はこういった背景を見越して、私に目をつけたようだった。ジョンソン政権に対しても、米軍の北爆に対する国際的な批判は最高潮に達していた。この戦争ももはや国民の支持をほとんど得られていない。私の役目は、現地のGIや農民を取材して、その心情を国民に伝えるというものだった。もちろん、得意の感想文を使って。
 新聞記者にもかかわらず、私は政治について無知同然だった。ダナンへと向かう飛行機のなかで、私が考えていたのは戦争のことではなく、むしろ幼少期に空想したあのジャングルの世界だった。いまでは写真や映像が正確に現地のようすを伝えていて、子供の自由な発想を許す余地などないはずだった。だが、窓から不定形な雲海を見下ろすと、事実や現実なんていうものは、遙か海の底で静かな廃墟となっているように思えた。
 機首から尾翼に向かって並ぶ座席のシートは赤く、天井や壁が白いのと対応して、機内は不自然なほどの清潔感が保たれている。どこからか「青く美しきドナウ」が聞こえるが、余計にこの飛行の非現実感を高めているようだった。分厚い窓ガラスから覗く空の景色は、水を飲み干したあとのコップを連想させる。私は思わず、縁や底に残った水滴を探してしまう。乗客は私以外に二、三人いたが、うちひとりは傷病兵のようだった。うなだれている彼はまだ十代の面影があるが、顔の左半分に巻かれた包帯をほどけば、すぐさま八十歳の老人になれそうな、惨めな悲壮感を漂わせている。そして彼がなぜ母国からダナンへ向かっているのか、私に訊ねる勇気は存在しなかった。
 到着まであと一時間を切ったころだった。空港付近の情報を仕入れようと、私は持参したラジオの電源を入れる。だが音量の調整を誤って、アナウンサーの声が過大なほど機内に響いてしまった。しかも、彼はかなり憔悴しているようだ。急いで声を抑えようとつまみを絞るが、もう遅い。数少ない乗客の視線は私に向かって一斉に注がれていた。そしてそれに応えるように、今度は発砲音が立て続けに五回、けっして高いとは言えない音質に紛れるようにして、その場にいた全員を脅した。
 そのあとはまるで映画のように、事態が説明されていく。各地の米軍基地にベトコンが奇襲を仕掛けたこと。アメリカ大使館が占拠されてしまったこと。米軍の反撃はかなり出遅れたこと…。うんざりするほど繰り返される解説に、私はいつか当事者としてではなく、観客として飛行機に乗り合わせているような感覚におちいった。陸地はまだ見えず、上空を飛行し続けたまま、ゆるやかな下降線を描き飛行機は空気のうえを滑っている。着陸後に何が起こるか、私はできるかぎり考えないようにした。静かに背もたれへ寄りかかって、深く息を吐く。ほかの乗客も同じ心理だったのだろう。私の前方にいた男は座り直し、視界から隠れた。ほかのひとりも同様で、ラジオの音声が落ち着くと、何かを飲み込むように喉を鳴らし、すぐに座席へもたれかかってしまう。
 だが、例の傷病兵だけは、しばらく私を片目で睨み続けていた。ふるえるほど強く、彼の右腕は肘掛けを握っているのが見えたが、そのときはじめて、私は彼の左手指が三本欠けているのに気がついた。もちろん、義指と手袋をしているせいで、ひと目では分からない。しかし、力がこもらずむしろ硬直したような左手を見ると、彼の身に起こった悲劇を想像するのは容易だった。彼が彼に対する視線に気づかないうちに、私は私の目を閉じ、居眠りをすることにした。
 CAに起こされたとき、機内の乗客はすでに私ひとりになっていた。どうやら、ダナン空港へ到着したようだった。目を醒ましたのを確認すると、CAはそさくさと飛行機から出て行ってしまった。ゆっくりと身を起こし、荷物をまとめはじめる。気になったのは、手にしていたはずのラジオが紛失していたこと。だが、異国にまで来て盗難を騒ぎ立てるのは野暮に思えた。そのまま急いで機内をあとにする。座席と座席のあいだの通路は狭く、荷物を持ったまま歩くのは難しかった。
 飛行機の外は眩しかった。空が快晴だったからだとか、煙のような分厚い白い雲が天を覆って光を拡散させていたとか、理由はいくらでも説明できる。だが、私はその正体を見届ける義務も権利も有していない。それどころか、エアステアを降りていくと、霧が晴れるようにして空港の風景は明らかになっていった。取材のために買った新品の運動靴の底が金属にふれて、小さくうなる。地上に降りた私は深く空気を吸い、荷物を背後にして立ち止まった。 ほかに人のない空港。高く突き出た管制塔の影が私の方へ静かに伸びていた。これでは行動することも、待機することもできない。私は、動力を失った小舟のように、凪のただなかでいずれ風が到来することを祈ることしかできなかった。本当にここはベトナムだろうか。そんな疑念すらよぎるが、耳をすますと遠方では激しい銃撃戦の痕跡として、残響のような発砲音が聞こえる。閉ざされた都市の隅で花火が上がる。そんな感覚だった。だが視覚的な印象は何も与えられず、無人と化した空港は背伸びをするように、延長されたアスファルトを足下で無表情に広げているだけだった。
「そこの姉ちゃん、俺たちと一緒に戦争行くか?」
 声が聞こえた。キャタピラを回転させながら、目の前をパットン戦車が通過する。丸みを帯びたアメリカ製の戦車。しかしそれ以上に、私はその轟音に圧倒されていた。なかの兵隊は姿を現すことなく、一定の速度を保ちながら視界の外へ消えていく。そして再び、私は戦争の音のなかに取り残された。
 身長の低い私に合った小さい運動靴を履き、周囲を捜索することにした。だが残されたのは廃墟のような管制塔と、ターミナルビルの景観だけだった。人影どころか、薬莢ひとつ落ちていない。日付を確認すると、今日はベトナムの旧正月だった。爆竹を鳴らすように、空港の外の方で大きな爆発音が続けて聞こえた。しかし、相変わらず空は眩しい。それでも歩いていくと、鼠の尻尾のような細いケーブルがあることに気づいた。踏まないよう、伝うようにして進んでいく。たわみながら伸びるそれは、ちょうどアスファルトの罅のように見えた。
 テレビがある。ケーブルはそこに繋がっていた。さっきまで人の群れがいたのか、紙くずやボロ衣が散乱している。焦げたベーコンやコーラの染みも残っていた。テレビに近づこうと私は足でゴミを払っていくが、そのうちのひとつにポール・ニューマンのブロマイドがあった。若い兵士のものだろうか。おそらく「ハスラー」の頃のポール・ニューマンが、透き通った瞳で私の顔を見つめている。だが、私はこの写真と写真の持ち主に何もしてやることがない。片手に握りしめてそのまま持っておくことにした。理由は私にも分からない。
 テレビでは見たことのない映画が放送されている。モノクロで、出来はひどく悪いようだ。ある作家の男が戦場となったジャングルの奥地で、かつて一世を風靡したカメラマンの老人と出会う。だが彼の才能はすでに底をつき、悪趣味な死体ばかりを撮影していた。しかし作家は老人の映す世界へ次第に呑み込まれていき、行動を共にするようになる…。ゴア描写ばかりが目立ち、鼻がつく素人くさい作家性が映画を台無しにしていた。だが私は、なぜか冷水を飲むように、テレビへかじり付いてしまう。
 私はそもそも戦地を取材するためにベトナムへ来たはずだった。私の仕事は、前線のようすを米国へ伝えること。だが、ダナンで私はまだ何もしていない。多くのアメリカ人のように、私はいまテレビを鑑賞している。ベトナムではいま戦争が行われている。アメリカの本社は私の仕事が完遂されるのを待っていた。間近で戦闘が行われ、銃撃戦のさなかで人が死んでいる。私の記事は読者のなかで評判が高く、新聞の売り上げに貢献していた。だが、私のいる場所で記事にすべきことはまだ何も起こっていない。ただ遠くから音が聞こえるだけだった。音は私と関係がないように思えた。いま、私がアメリカへ帰れる望みは薄い。一月のベトナムは寒かったが、これも幼少期の私の空想とは無関係な事柄だった。雨は降らないようだ。私の地元はいま歴史的な豪雪に悩まされている。こう考えているあいだにも、どこかで砲弾が落ちていた。地震のように大地はゆれている。テレビは地平線の外側を映していた。いつか映画は終わるだろう。そして終わった。
 画面は切り替わり、美しい浜辺が映った。波が往来する静謐な映像のなかで、焚き火が激しく燃えていた。私はアスファルトのうえで両膝を抱えて、水の音に耳をすませた。

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