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THE HIGH BEATSの歴史(5)

燃え尽きた66年


ここでまた横道にそれますが。

2005年頃のこと。40年間音信不通だったホンダサンと連絡が取れました。
webで検索したら何人かの同名の人が出てきましたが、その中で年齢や居住地からこの人ではないかと狙いをつけて、失礼ながら残っていた年賀はがきを使ってたずねてみました。

電話がかかってきました。
あのホンダサンでした。飄々としたユニークな人、エピソードの多い人として後輩たちも親しんでいた、あのホンダサンでした。
どちらも懐かしさで話が交錯してもどかしくてしょうがないので、ホンダサンが手紙を書き、私は改めてメールでお話しましょうと言うことになりました。
そして、便箋5枚にわたる手紙が来て、その内容は神戸で何日か過ごしたこと、初めて食べたうどん焼きのこと、ダンスパーティーや演奏会など懐かしさであふれていました。

ものすごく記憶力のいい人で、私なんぞはそうと聞かされても、あれっ、そんなこともあったかなぁと、まったく思い出せないことを細部にわたって覚えています。

で、今書いているこの文章も、今後ホンダサンの指摘によっては、さかのぼって追加訂正がされると思います。
ということを、書き添えて本筋に戻ります。

この年はタカハシクンと私を除いてみんなが就職活動の年でした。(私は本来なら卒業していなければならない年で……)
3月17日に岡山市での演奏会が決まったとき、それを最後として解散することにしました。
たしか、誰言うともなく決まったと思います。
もともとプロにはならないと言うことを決めていたし、卒業準備をしなければならないので、当然のことのように決定しました。

最後の演奏は岡山市民会館で行われた、早稲田の稲門会と慶応の三田会との共催による合同コンサートでした。
広い立派なホールは人で埋め尽くされていました。
もう演奏することはないであろう一曲一曲を真剣に心を込めて演奏しました。
アップテンポの曲はより激しく、スローテンポの曲は感情を込めて、最高の出来だったと思います。
ギター一本をバックにしたヒゾーの「ダニーボーイ」もしんとした会場いっぱいに響き渡りました。

約3年弱という短い間でしたが、充分に燃えつきた感はあります。
ここに素晴らしいときを与えてくれたメンバーに感謝を込めて、西武結婚式場で撮影した唯一まともな写真を公開します。

左から ヒゾー タカハシクン テッチャン カマサン(私) ポン ホンダサン です。

あれから約45年の歳月が流れました。
私は3年前あたりからヤフオクでギター(左)を購入して、一人で各パートの練習をし、死ぬまでにCDデビューするんじゃとがんばっておりました。
それを嗅ぎつけたCyuuがフェンダーUSAのギター(右)を送りつけてきて、さしあげるから一緒に組みませんかと言って来たのです。断る理由はありません。
お互い歳だし手も動かんし、頭もついて行かんし、これぐらいならできると思う曲を選んで練習しています。
しかしやはり、やり始めるとそれだけではすまないもので、この曲もやりたいけどドラムがほしいなあ、やっぱりベースがないとナア、など欲が出てきます。
いつかまた誰かを引きずり込んでということになるかもしれませんが、先が短いのに急がねば。

フェンダーUSA(右)はロクジュウウゴ店舗に置いています

(おわり)

追記:この文章は2009年に公開したブログ記事を再編集したものです。
この後、バンドの再開など、続きはまた後日投稿していきます。