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自分の「軸」を作りたい

お久しぶりです、こばやしです。院に入学してもうすぐ1年が経ちます。悩み、葛藤しながらも、なんとか生きています。

主体的に生きたい

大学院に入ってからの私の一番の変化といえば、「主体性を持ちたい」と思えるようになったことでしょうか。私は大学院受験より前は、自分の意見なんて持っていなかったし、そもそも持ってはいけない環境で生きてきました。

子どもの頃から、家庭の中ではずっと家族から「考えるな」「感じるな」「ネガティブな感情は決して言葉にするな」という言語的・非言語的な圧力をかけられて育ってきました。その環境になんとか適応するために、自分の感じ方にフタをして生きてきた気がします。

社会人になってからは、曖昧に笑ってごまかしていました。「いいと思います!」と忖度するか「ははは・・」と濁すかの二択。非正規雇用の私の意見など、求められていなかったのも事実です。

院生になって「ところで、こばやしはどう思う?」と聞かれるようになり、自分がどう思うかを答えていいんだと知りました。それと同時に、自分の意見を持ってこなかったことを思い知らされたし、意見を"人に話す"という行為は、とても勇気のいることだと知りました。

当事者としての私

なので、私が今思っていることを話します。正しくはないかもしれない。でも、間違っているとも思ってません。

私はただの当事者で、自分の傷つきがどうにもならなくて、どうにかしたくて、大学院を受験しました。入学したとき、周りにいる人たちも大抵は同じでした。傷ついているから、同じ場所にいました。だけど1年近く経って、少しずつ違和感を覚えるようになりました。

支援者に「なる」ということは、人を変えるのでしょうか。それとも、変わらなければならないのでしょうか。支援者「側」の椅子に座れるからといって、かつて当事者だったことから距離を取って「客観的」かつ「中立的」に、当事者と関わらなければいけないことが、私にはどうしても腑に落ちないのです。

境界を曖昧にして巻き込まれたら当事者が傷つく、それはたしかにそうかもしれません。だけど私は、客観的や中立的のデメリットも感じています。社会的弱者である当事者は、中立的な対応に傷つきます。客観的な対応に傷つきます。支援者側の勝手な正しさに傷つきます。

適応することが正しくて、不適応が正しくないのでしょうか。人とつながることが良いことで、つながらないことは悪いことなのでしょうか。健康的に生きるのは素晴らしくて、不健康はいけないことなのでしょうか。私はそうは思いません。

でも支援者に「なろう」としている初心者は、安易にそのような方向へ向かいがちです。私はそのような勝手な正しさの押し付けを、常に疑問に思います。

それにケースカンファレンスで勉強させてもらっているのに、ケースに対して上から目線でモノを扱うように発言する同期に対して、客観性って一体何なんだろう…と悲しくなります。

当事者であり続けること

私に何ができるだろうと考えたとき、私は当事者であり続けたいと思いました。この界隈で支援者になっても、当事者であり続けることは私の強みであり、弱みだと思います。

上下ではなく対等に関われること。
当事者の弱さに肩入れできること。
正しさを押し付けないこと。

それは私のいる界隈では、現在、支援の方法としてスタンダードではありません。ただ結果は、後から着いてくるものだと思います。

…自分の意見を話すとき、いつだって怖いです。今この瞬間も、とても怖いです。いつだって否定されてきたから。「お前には無理」って頭ごなしに言われ続けてきたから。

それでも私は、自分の<軸>を作りたい。
そう思っています。

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