脱サラして、フリーの編集者になった話【後編】
前回の ”キャリア” 話の続き。
後編では、上京してからの会社員時代〜現在の仕事をするに至るまでのことを書きます(こんなに間があいてしまって・・・すみません! しっかり書くのでお許しください〜)。
とにかく東京へ!
さて。【前編】で正直に書いたとおり、「東京で働く」ことがまずは第一条件だった私。名古屋も都市だけれど、その分、「ここで十分」みたいな考えになりがちだなー、井の中の蛙になりたくないなーと思っていたから。特に、私は生まれてから一度も名古屋を離れたことがなかったし、日本の中心を知りたい! 自分の足で立てるようになりたい! なんてことを考えていました。まあ、姉も妹も大学進学と同時に名古屋を出て、三姉妹のうち私だけが最後まで実家にいたものだから、両親は「文だけは名古屋にいてくれるでしょう」と淡い希望を抱いていましたけれど。
とはいえ、「私だって出ていきますからね!」とおおっぴらに言うのもなんだか両親がかわいそうだと思っていたので、就職活動もこっそりひっそり。会社説明会や選考の途中まではできるだけ名古屋会場で済ませ、最終かひとつ手前の面接でどうしても東京本社へ行かねばならないときだけ、東京へ。
朝、チア部の朝練へ出かける際、部活のボストンバッグ(柴犬1匹は余裕で入るくらいのドラム缶のようなサイズ感)に、リクルートスーツやパンプス、A4バッグ(あの就活生特有の)を入れて家を出る。朝練が終わったら、就活生ルックに着替え、名古屋駅へ直行。ボストンバッグに今度は私服や練習着を入れて、駅のコインロッカーへ押し込み、東京行きの新幹線に乗車。東京で面接を終えたら名古屋へとんぼ返りして、また名古屋駅で私服に着替え、なにごともなかったかのように帰宅するーーー。
最終的に、某人材系企業の東京本社での営業職として内定をもらいました。両親に「私、東京で就職します!」と報告すると、ふたりとも「ひえ〜騙された〜!」と驚きながらも娘の気持ちには気づいていて、私が打ち明けた就活劇の一部始終を笑ってくれました。
人材業界・営業職として過ごした5年半
配属はつい数ヶ月前まで使っていた、就職情報サイトなどを扱う事業部での営業職。ざっくり言うと、企業の新卒採用が成功するべく、あらゆる手助けをする(提案してお金をもらう)という仕事。
人材業界に興味があったわけではなかったけれど(今だからキッパリ)、念願の東京での仕事はとにかく楽しかった! 一日100本も200本もテレアポして10件くらいしかアポを取り付けられなくても、「しつこい!」とガチャ切りされても、まったく心が折れなかった。だって、運良くアポをもらえたら、東京の街を ”仕事” という大義名分を掲げて、あちこち歩きまわれるんだから。
エリアで担当を分けられていなかったため、23区どこへ行ってもOK。渋谷や品川、赤坂、丸の内周辺のような主要なオフィス街はすでに先輩たちが訪問していたというのもあって、新人の私は渋めな街を開拓することに精を出していました。そのなかで、小伝馬町、小川町、人形町、日本橋(アポの合間にコレド日本橋でよく買い物したな)・・・あたりは特に気に入って、集中的にテレアポしていたような気がします。
その甲斐あって(?)、会社がそのとき注力していたサービスを新規企業に売ったとかで、”入社半年でいい成績をおさめたで賞” 的な(半年版新人賞的な)ものをいただいたりもしました。
「このままでいいのか・・・? 私」
けれど、「東京たのすぃ〜〜!」だけでは、そう長く続くはずがありません。”賞” と名の付く派手な成果も、前述の新人のとき以来ナシ。
「興味がない」×「営業は好き」、「興味がない」×「営業に向いている」 タイプの人もたくさんいました。でも残念ながら、私はそれらの掛け算タイプに当てはまらなかった。それなのに、年次だけは毎年あがっていき、いたずらに大きな企業(または誰もが社名を知っている企業)を先輩や上司から引き継がせてもらえたりする。新人の教育係を任されたりもする。ビッグクライアントの担当も新人の教育も私より向いている人がいるのに、申し訳ない気持ちもしていた。
ただ「興味がない」but 「真面目」ではあったので、「会社や上司の期待に応えたい」やら、「夢見る後輩を裏切ってはいけない」やら、「もうひと花咲かせたい」やらで、なんとか踏ん張っていました。が、もちろん「このままでいいのか・・・? 私」という言葉が常に頭の中でグルグルグルグル・・・エンドレス。
そんな悩める子羊時代を支えてくれたのはやはり、「雑誌」と「ファッション」でした。
支えてくれたのは、深夜の雑誌
夜遅くまで仕事して終電に飛び乗り、半分気を失いながら最寄り駅まで到着。駅からマンションまでの道すがら、コンビニに立ち寄るのが何より楽しみで。
目的は雑誌の最新号!
24時をまわって、発売日になったばかりの雑誌がトラックでコンビニに届くころだから。まだラックには並んでいない、床に無造作に置かれたビニールのカバーをかぶった雑誌の山、それを指差して、店員さんに「すみません、これ買いたいので1冊出してください」とお願いして売ってもらう。
終電に乗る前より少し元気になって、雑誌と缶ビールと三角パックの枝豆とを買って帰宅。お風呂上がりに枝豆&ビールで晩酌しながら熟読して寝落ちする(直前に歯磨きして)・・・。次の号が出るまで毎晩毎晩読み返して、次号予告を見て「わ〜次はスカート特集か〜!どんなページだろう!」と想像して。
発売の数日前になると貼られる電車広告のタイトルを眺め、ワクワクを増幅させて。そうしてまた、深夜に半目状態でコンビニへ最新号を求めてコンビニへ。女性誌、メンズ誌、洋雑誌、インテリア系、旅関連・・・ありとあらゆる世代・ジャンルの雑誌を毎月少なくても10冊は買っていました。
「そんなに好きなら仕事にしたら?」
当時付き合っていた同僚で2つ年下の彼が、初めて私のマンションに遊びに来たときのこと。本棚や本棚におさまりきっていない、1Kの部屋中に山積みになった雑誌たちを見て、文字通り雑誌に埋もれながら寝ている様子を見て、特に好きな表紙の号を抱えて寝ている私を見て、彼はまっすぐな目で一言。
「こんなに雑誌が好きなら、それを仕事にしたらいいのに」。
私はなぜか咄嗟に「は!? そんなに甘くないんだよ!」と彼に激怒しました(笑)。それでも彼は「だって、こんなに雑誌が好きなんだから。好きなことを仕事したらいいって言うのは普通じゃない?」と続けてきて。彼はめちゃくちゃシンプルな考え方の人で、「好きなことを仕事に」と本心で思っている人。当時、同僚として引け目を感じてしまうほど楽しそうに仕事をしていたし、自分がやりたいことにとことん貪欲で。結局そのあとすぐ、彼は「この仕事をもっと極めたい」と、私より先に会社を辞めて、独立・起業しました。
一方私は、「逃げない〇〇」「諦めない〇〇」みたいなの自己啓発本を読み漁り(笑)、サラリーマン生活を続行。思えば小学生のころ、「最後まで諦めちゃダメ」と言う母に、大っ嫌いな水泳教室を辞めさせてもらえず、バタフライの試験で合格をもらうまで続けた精神が、大人になっても(良くも悪くも)染み付いていたのでは?と、今、自分なりに分析しています。
27歳の終わり。
結婚や出産も遠い将来ではなくなってきたころ。自分の人生を想像し、「このままでいいのか?自分」と本気で考えるように。結婚しても出産してもずっと仕事はしたい、でも今の仕事は本当にしたい仕事ではない。このままだと私、イキイキと仕事をする夫に引け目を感じる妻になる・・・子供に自分ができなかったことを押し付けるような母親になる・・・そう思うとゾッとしました。
そうして、「そんなに好きなら仕事にしたらいい」と彼に真っ直ぐな眼差しで言われてから約2年後、やっと動き出しました。明らかにその一言がきっかけになったし、その後も、毎日呪文のように私に言い続けた彼(現在は夫となりました)には、今もとても感謝しています。
一番のハードルは、編集者である姉
さて。ようやく動いた私。あ、その前に、私が「好きなこと」を仕事にするまでにこんなに腰が重かったのには、もうひとつ大きな理由があります。
それは、姉の存在です。
【前編】でも書いたとおり、5つ年上の姉。一緒に『mc sister』を読んでいた姉です。彼女は東京の出版社に就職し、昔の言い方でいうと、某赤文字系雑誌の編集者になっていました(そういえば、学生時代からその雑誌ももちろん購読して、毎月感想を姉にメールしていた)。一番近い身内が憧れの職業に先に就いていたのです。
姉妹兄弟で同じ業種や職種に進んでいる人もいますよね。ただ私は、これまた謎の幼少期からの染み付いた性質で、「姉と同じことはできない!」と強く思っていました。本気で。
このことも彼(今の夫)に打ち明けると、「え、どうして?一番近くにいるんだから、アドバイスしてもらえてラッキーじゃない?」と不思議がられました。理屈なんかなくて、とにかく幼いころから「姉や妹と同じことをやっていては目立たない」という脳。姉や妹が勉強が得意→じゃ私は運動を頑張ろう(今思うとそんなに体を動かすのが好きなタイプではない)、姉がフェミニン、妹がボーイッシュな服を着ていた→じゃ私はLAカジュアルを着よう(ニコール・リッチー派でした)とか。
これは ”三姉妹の次女あるある" だと信じているのですが、自分の好きなこと・したいこと、より、自分のキャラ付けを重視して、天の邪鬼な行動をとっていました。
というわけで、姉に「実は、私もファッション誌の編集者になりたいんだ」と告白するときは、死ぬほど緊張しました。27歳の春、金曜の夜でした。八丁堀の立ち飲み屋に誘って言おうと思ったけれど言えず、そのあと、23時ごろ、近くのおでん屋さんに場所を変えたとき、様子のおかしな妹に姉が「何か言いたいことがあるんじゃないの?」と逆質問。ようやく話を切り出すことができました。
姉は「なんだ〜! あーちゃんは昔から雑誌が好きだし、ファッションが好きだし、やったらいいよ。ていうか、やったらいいと私は思ってたよ」と。続けて、「だけどね。27歳でも、社会人を5年やっていても、新しい業界ではド素人だからね。どんな人からもなんでも吸収する素直さが絶対大事だからね」と言葉をかけてくれました。
私、27年も生きているのに、自分自身のことをよくわかっていなかったんだな、と実感。私より私のことを理解してくれている人(彼も姉も)がいてくれたことは、かなりラッキーだったと思います。
「一度でいいので会ってください」
あんなに何年もうだうだ悩んでいたのに、霧がパーッと晴れた私。「好きな雑誌」 兼 「営業OLの読者がターゲットの雑誌」 で3誌にしぼり、アプローチをかけることを決めました。自分が好きな雑誌じゃないとボロが出るし、相手(編集部)にとって旨味がないと採ってもらえないからです。それと、姉がいる編集部、出版社は除外しました。自分の力で一人前になるためです。
アプローチのかけかた、それは ”テレアポ" です。雑誌の裏に編集部の代表番号が書いてあるのですが、それを見て電話するだけ。
「お忙しいなか恐れ入ります。いつも読者として愛読させていただいる小林と申します。編集部でアシスタントをさせていただきたく、募集していないのは知っているのですが、一度でいいので会っていただけないでしょうか?」と。
テレアポ自体は前述のとおり、本業で慣れたもの。3誌の結果は、1勝・1敗・1引き分け、でした。
1敗→「うちは今採用はございません」と電話でお断りされ、1引き分け→面接まではしていただけたものの、微妙な反応。この2誌についてダメ押ししなかったのは、肌感覚として「採ってもらえないな」と思ったから。この感覚は、営業5年で培った ”勘" という、数少ない財産のおかげです。
”1勝” となった編集部が、今でもお世話になっているOggi編集部でした。
たまたま、電話をかけたときに出てくださったのが当時の男性副編集長。「一度でいいので会ってください」と言う得体の知れない女に「では○日の00時に編集部にお越しいただけますか?」と返してくださいました。
約束の日時に、履歴書と資料を持参しました。履歴書は一般的な市販されているもの。資料はクリアファイルに過去1年間のOggiで「27歳営業OLが好きだった企画」を切り抜いて、好きだった理由だとか、こういうところが参考になったとか、コメントを手書きで添えて1冊にまとめました。
面接では、とにかく正直に熱い想いを伝えました。拙い言葉も、クリアファイルも、大切に受け止めてくださいました。が、当時本当に募集をしていなかったので、すぐにはOKをいただけませんでした。当たり前です(笑)。
それで私は「ふわふわした憧れで、甘い気持ちでここへ来ているのではないんです。実は姉が〇〇編集部の編集者をしています。だから、すごく泥臭くて大変なお仕事だということも知っているつもりです」と伝えました。”夢見る夢子ちゃん” ではないことをわかっていただけました。
後日、編集部での検討結果についてお電話をもらい、「とりあえず、お仕事が終わったあと、夜2時間ほど、編集部で雑務のお手伝いをお願いできますか?それで雰囲気を知ってもらい、お互い判断しましょう」とのことでした。
二足のわらじ時代
そういうわけで、本業である営業OLをしながら、夜2時間、編集部へ通い始めました。
当時、編集部には大学生のアルバイトさんがひとりいて、その方が朝から夕方までの勤務のため、その後の時間を私が引き継ぐ、という流れ。電話に出たり、FAXや郵便物を仕分けたり。社員編集者、フリーランスの編集者、スタイリスト・・・編集部には様々な人が出入りするので、必死に名前と顔を覚える。不要になった資料の裁断したり、スタイリストさんごとのコーディネートルームへラックを搬入出したり、バイク便を手配したり・・・編集部の雑務は本当に多岐に渡っていて、2時間があっという間。
本業が繁忙期のときは、本業→編集部→本業という日も続きました。入社からずっと、7cmヒールのパンプスで営業していて、正直ヒールで動き回るのは平気ではあったけれど、編集部では身軽に見えるよう、いろいろ仕事を任せてもらえるよう、フラットシューズに履き替えるようにもしていました。
そんな生活を半年ほど続け、編集長から「営業OLを辞めて、正式にうちで編集アシスタントとしてやってみない?」と言ってもらえました。
2012年の年末、入社から5年半お世話になった人材系企業を退職し、2013年、編集アシスタントとして新しい年を迎えました。28歳の冬でした。
28歳でアルバイト待遇スタート
見出しのとおり、待遇はアルバイト。貯金と退職金はそこそこあったので、しばらくは行けるな、と思っていました。不安な気持ちがなかったと言えば嘘になるけれど、二足のわらじ時代より仕事の幅が広がって、最高にワクワクしていました。
ある社員編集者の方の専属アシスタントにさせていただきました。
前職とは業界も職種もまっったく異なるため、本当にゼロからのスタート。とにかくすべて同行させていただき、名称や意味を教えてもらう。その後、コンテの描き方・構成の考え方、スタッフのキャスティング、打ち合わせの仕方、ロケ場所のアポ取り、お弁当の手配、撮影現場での動き方、写真チェックの方法、レイアウトのデザイナー打ち合わせ、原稿の書き方、入稿の仕方、校正の仕方・・・・・・・。もっともっともーーーーっと内容は細かいですが、本当にひとつひとつ、詳しく何度も教えていただき、勉強させてもらいました。
ご自身の通常業務に加え、私にゼロから教えるなんて・・・本当に大変だったと思います。厳しく、愛のある教育をしてくださった先輩編集者、編集部の皆さん、見守ってくださったスタッフには、感謝してもしきれません。
30歳を間近にした春、フリーとして独立
編集アシスタントを2年ほど経験する間、巻末の見開き2ページの連載を担当させてもらったりもしました。
カレンダー形式のレイアウトで、ファッション・ビューティ・カルチャー・グルメなど・・・新商品や旬の催しを紹介するページ。「編集アシスタント小林文が独断と偏見で選ぶ」というコンセプトだったため、ネタのセレクト(バランスよくですが)も、自分語りでのキャプションも・・・自由度が高かった。各所への資料・画像請求や掲載のお願い、校正チェックのお願いなど、毎月20〜30くらいこなすため、プレスや広報の方と知り合えたし、親しくなることもできました。
2015年春。
編集長に呼ばれ、「ブンちゃん(←愛称です)、来月から巻末の連載以外にも、ひとりでページを担当してください。 おめでとう!」と ”独立" を言い渡されました。
そうして2015年の6月号、「バーベキューファッション」企画という5ページで独立。
記念すべき独立して最初の号は、日付が変わって深夜24時のコンビニに彼とふたりで買いに行きました。ちゃんと5ページの企画として掲載され、スタッフクレジットに ”小林文”の名前を見たときの感動は、たぶん一生忘れません。
今はフリーランスの編集者として、雑誌もweb記事もコラムも、はたまたアパレル企業や百貨店との商品開発も・・・いろいろさせていただいています。それもこれも、すべては募集していないところに、無理やり電話をかけたことからスタートしました。
・・・だいぶ長くなりましたが、だいぶ端折ってもいます。悔しかったこと、辛かったこと、うれしかったこと・・・・もっといっぱいありますが、これくらいにしておきます。
思い返すと、”運” と "縁" に恵まれていたと思います。それと前例がなかったこともよかったのかもしれません。
「脱サラしてフリーの編集者になった話」、これにて終了とさせていただきます。7000字以上も読んでくださり、本当にありがとうございました!
小林 文