花山天皇の生涯

花山天皇」は「かざんてんのう」、もとは、「かさんてんのう」とよんだ。

 

【はじめに】

 高校生の頃から、お寺が好きだ。受験勉強に疲れた時、法華山一乗寺へよく行ったものだ。境内にただじっと座っているだけで、何かしら心落ち着き鋭気が養われて、また頑張ろうという気持ちになれたからだ。

 以来、いろんなお寺へ参詣した。一般に有名な寺院は勿論、関西花の寺二十五ヶ寺、近畿ボケ封じ十ヶ寺、神戸十三仏等々。

 もう30年以上も前になろうか、西国三十三観音霊場巡りを2回ばかり経験した。予め詳しいことを何ら勉強せずに、ただ単にお寺ヘ行って荘厳な雰囲気を味わえたら、それで充分という軽い気持ちだった。荘厳な雰囲気を求めただけと言えば大変失礼かもしれないけれど、それが事実だった。確かに多くの霊場、わけても深山幽谷にある霊場で、その願いがよくかなえられた。

 巡礼しているうちに、巡礼の創始者が徳道上人であり、しかも、その徳道上人がここ播磨国揖保郡矢田部の里の生まれであること、その死後約270年経って、花山天皇がその巡礼を重ねたことから貴族や一般庶民にも根付く切掛けとなり、「中興の祖」とされていることなどを知り、花山天皇とは一体どんな天皇だったのだろう、一度調べてみなければと思いながらも、そのままになっていた。

 この度、一念発起して、『大鏡』はじめ、『栄花物語』、『書写山円教寺縁起』や同『性空(しょうくう)上人和讃』や、番外を含め各霊場のお寺の縁起などから、いくらか知るところがあったので、ここに認めてみた。近年、西国霊場巡りをする方が増えていると聞いており、何かの参考になればと願うところである。

 

【出自など】

 第65代花山天皇は968年(安和元年)、第63代冷泉天皇の第一皇子として出生。母は摂政・太政大臣藤原伊尹(これただ/これまさ)の娘・懐子(かいし/ちかこ)。藤原伊尹は書道で有名な、三蹟の一人藤原行成(ゆきなり/こうぜい)の祖父にあたる。乳母は橘則光の母右近尼。即位までは師貞(もろさだ)親王と呼ばれた。花山源氏の祖であるが世襲した伯王家は後に断絶。後ほど触れるとおり若くして出家したため、花山院とも、花山法皇とも呼ばれる。

 

【立太子と即位】

 969年(安和2年)、父冷泉帝の弟叔父である守平親王(第64代円融天皇)の即位と共に皇太子になったが、これは生後10か月足らずのこと。摂政であった外祖父伊尹の威光によるものであったが、984年(永観2年)、同帝の譲位を受けて17歳で即位したときには、既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚を失ったことが2年足らずの在位という結果に結び付いたと思われる。

 

【当時の政治状況】

 藤原頼忠(よりただ)は、父・実頼(さねより)の後を受けて摂政になっていた伊尹(師輔・もろすけ の長男で円融天皇の外伯父)が972年(天禄3年)に急死した際、関白候補の1人に挙げられたが、最終的には伊尹の弟の兼通が受けた。藤原兼通(かねみち)は弟・兼家(かねいえ)とは極めて不仲だったが、頼忠とは昵懇で政務の細かいことまで互いによく諮ったとされる。

 同年11月に重病のために危篤となった兼通は、兼家が自らの後継になることを防ぐために、重病をおして参内し最後の除目を行って、頼忠に関白職を譲り、逆に兼家から要職を奪った。その直後に兼通は薨去した。頼忠も天皇の外伯父である兼家を放置もできず、978年(天元元年)自らが太政大臣に就任した際、兼家を右大臣に引き上げ政界に復帰させた。頼忠は関白太政大臣とはいえ、円融天皇との外戚関係がなく、天皇自身も親政への意欲から政務の全てを頼忠には一任せず左大臣・源雅信に職務を行わせたために、権力が分散され、その政治的基盤も不安定であった。この状況の中で頼忠は娘の遵子を、一方、兼家も娘の詮子をそれぞれ入内させた。遵子は皇子を生むことはなく「素腹の后」とよばれたが、詮子は懐仁親王を儲け兼家に有利な情勢となった。このように、頼忠の政治基盤は弱く、政治権力も円融天皇・頼忠・雅信・兼家の四つ巴に割れて、政局は停滞したという。

 そのような状況の中、円融天皇の退位に伴って、花山天皇が即位した。関白には先代に引き続いて頼忠が着任したが、実権を握ったのは、天皇の外舅藤原義懐 (よしちか 伊尹の五男)と乳母子藤原惟成(これしげ/これなり)であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など革新政治を行ったが、革新的な政策は関白・頼忠らとの確執を招き、皇太子懐仁(やすひと)親王(円融天皇の第1皇子 後の第66代一条天皇)の外祖父・兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐・惟成との対決姿勢を示した。そのため、宮中は義懐派・頼忠・兼家の三つ巴の対立を招き政治が停滞した。

 

藤原義懐

 972年(天禄3年)父・伊尹が急死し、2年後にも二人の兄(挙賢・義孝)が同日に病死するという災難に遭い、若年時は不遇であったが、同母姉の冷泉(れいぜい)天皇女御懐子(かいし/ちかこ)が生んだ師貞親王(後の花山天皇)の数少ない外戚として、979年(天元2年)以来、急速に昇進した。

 父の代からの側近で天皇の乳兄弟でもある藤原惟成が中心となって推進した荘園整理令といった新制の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政策は関白・頼忠らとの確執を招き、義懐・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治が停滞するもととなったことは、前述のとおりである。

藤原惟成

 花山天皇の乳兄弟。天皇の信頼篤く、その側近として藤原義懐と並んで花山天皇即位に伴って権勢を振るった。特に、破銭法(破銭忌避の禁止)・沽売法(物価統制令)・荘園整理令をはじめとする「花山新制」の施行に当たっては、実務面において中心的な役割を担った。986年(寛和2年)に発生した寛和の変によって花山天皇が退位・出家に追い込まれると、藤原義懐と共に自らも出家して政界から引退した。年齢は34歳。

 

【才能】

 芸術的才能に優れ、短い生涯の中で芸術面での才能を存分に発揮したことでは有名。その分野は絵画・建築・和歌・工芸・造園など多岐にわたり、わけても和歌については在位中の985年 (寛和元年)とその翌年に内裏で歌合(うたあわせ 和歌の作者を左右に分けて歌を詠み、その勝敗を競う)を主催し、自らも歌を生み出したこともあるという。

 歌合以外では和歌集の創出にも関わり、私撰和歌集『拾遺抄(しゅういしょう)』の増補、『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』を親撰(しんせん)した。ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いたといわれる。

 『花山院御集』には父・冷泉院に筍を贈った際の歌のやり取りを収めている。

  世の中に ふるかひもなき 筍は わが経む年を 奉るなり
                                                                                

  年経ぬる 竹の齢を 返しても この世をながくも なさんとぞ思ふ   冷泉院

西国三十三観音霊場の御詠歌はすべて、この花山院の詠んだものとされていることからも理解できよう。御詠歌と「御」が付されているのは、そのためである。

『大鏡』では、花山天皇を「風流者」と記しているほか、御所造営にあたった際の、着想の見事さを讃えている。

 

【在位中の出来事】

『大鏡』によると、「若き日の道長」の条に肝試しの一件が記載されている。

花山天皇在位のころ、五月下旬の闇夜、五月雨激しく降り気味悪い中、昔の恐ろしかった想出が話題になり、「今夜はひどく気味の悪いことよ。遠く離れた人気のない所なんぞ一人で到底行けまい」との天皇の言葉に皆同意したが、道長一人「どこへでも参りましょう」と申し上げた。そこで天皇が「道隆は豊楽院、道兼は仁壽殿の塗籠(ぬりごめ)、道長は大極殿へ行け」と命じた。二人は「道長がつまらぬことを奏上したものよ」と不満を託ちつつ苦々しく出発したものの、途中で耐えられず引返したので、天皇は扇を叩いて大笑いしたという。一方、道長は長時間経過後、平然と帰還し、「何も持たずに帰ってきては証拠がないので、大極殿の柱の下の方を削って取ってきた」として、それを提示。翌朝、削り屑がぴったり合致したとして、道長の豪胆さにみんな驚かされたとの記載がある。

 

 

【父親・冷泉天皇譲りの奇行】

父親の冷泉天皇には多くのエピソードが残るが、花山天皇も親譲りの奇行が多かったという。当世から「内劣りの外めでた」と評されたと『大鏡』にみえる。私生活は駄目だが政治面は優れる、との意味だろうか。

『大鏡』では、「賀茂の臨時の祭が夜までかかるのはよくない。皆、辰の時に参内せよ。」と命じたり、乗馬が好きで舞人の馬を清涼殿の朝餉(あさがれい)の壺庭(つぼにわ)に引き入れて、極めて狭いにも拘わらず殿上人たちに命じて馬に乗らせたり、そのうえ自分まで乗ろうとしたという。偶々義懐が参内したので、天皇は顔を真っ赤にした、と伝えている。源俊賢卿は「冷泉天皇のお狂いよりも始末がわるい」と評したともある。

乱心の振る舞いを記した説話は、即位式の際、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話まで伝わる。

これは、出家後のことながら、父・冷泉院の居所・南院が火災に遭った夜、馬に乗って見舞いに参上したのだが、花山院は先に鏡を付けた笠を被り、会う人、会う人に「父はどこか」と尋ね歩いて、やっと見つかった車の冷泉院に対して、馬の鞭の腕貫(うでぬき)という紐に腕を差し込んで両袖を胸前で合わせて跪いた。その姿が余りに滑稽だったし、逆に、この緊急時にも拘わらず冷泉院が車の中から声高らかに神楽歌を謡ったという。このように両院の奇行を伝えている(『大鏡』)。

 

【出家と退位】

一途に思い詰める性格が強かったものと思われる。藤原為光(ためみつ 師輔の九男)の娘忯子(しし 母は藤原敦敏の娘)に強く心惹かれた天皇は、忯子を女御にすることを望み、義懐に為光説得を命じた。義懐の正室は忯子の実の姉であったからだ。そして、忯子の入内がかない、深い寵愛を受けた忯子は懐妊するが、985年(寛和元年)17歳で死去した。これにショックを受けた天皇は、「出家して忯子の供養をしたい」と言ったが、義懐は天皇の出家願望が一時的なものと考え、惟成や頼忠とともに翻意を促した。

しかし、兼家は皇太子の即位、自らの摂政就任を狙って花山天皇を退位・出家させようと計画、次男・藤原道兼(みちかね)を利用して花山天皇を出家させる陰謀を巡らせた。

『大鏡』によると、986年(寛和2年)、兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇とともに自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとした。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と出発を躊躇った。内裏を出る直前、かつて忯子から貰った手紙を自室に残したままであることを想い出し、戻ろうとするが、道兼が嘘泣きをして天皇を帰室させなかった。それは、兼家が子の道隆(みちたか)や道綱(みちつな)らに命じて、清涼殿(せいりょうでん)にあった「三種の神器(鏡・玉・剣)」を皇太子の居所・凝華舎(ぎょうかしゃ)に既に移してしまっていたので、それを知られると困るからだ。天皇一行が寺へ向かった直後、内裏諸門を封鎖したとある。また、邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちであったという。

現・加古川市出身の陰陽師(おんみょうじ)蘆屋道満(あしや どうまん)のライバル・安倍晴明(あべ の せいめい)の屋敷の前を一行が通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでにことはなったようだ。式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝えている。

元慶寺に到着したとき、道兼は「自分は今このまま出家しないで、ことの次第を親たちに報告するため一旦帰って、改めて参りましょう。出家はその後で」と言って帰ってしまい、出家しなかった。天皇は、この時初めて謀られたことに気付いたが、とき既に遅し。

これに対して藤原義懐らは、居所不明になった天皇を探し出し元慶寺で発見したが、既にその出家後。政治的敗北を知って義懐も惟成とともに出家した。

こうして986年(寛和2年)、19歳弱の天皇は即位からわずか2年余りで、懐仁親王(後の第66代一条天皇)へ譲位して太上天皇となり、兼家は当初の狙い通り摂政に就任した。

この事件は元号を取って「寛和の変」と呼ばれる。

この事件がもとで、親王時代に学問を教えた紫式部の父・藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で悪名高い藤原元命(もとなが 惟成の甥または叔父)のその後の出世にも影を落としたという。

 

陰陽道(おんみょうどう)

中国の陰陽五行説に基づいて災異吉凶を説明しようとする方術。天文、暦数、卜筮(ぼくぜい)などを研究。日本には6世紀頃に伝来し重要視されたが、平安時代以後は神秘的な面が強調されて俗信化し、避禍招福の方術となった。

 

安倍晴明(920-1005)

平安中期の著名な陰陽師。式神(しきじん)を用いて異変をよく予知したという。著書に『金烏玉兔集』がある。現在でも全国あちこちに晴明神社があり、京都一条戻り橋にある晴明神社は参拝者も多いと聞く。

 

蘆屋道満(あしや どうまん)

播磨国印南郡(現・加古川市)の生まれ。正岸寺(現・加古川市西神吉町岸)が居宅跡とされる。幼名は奇童丸。慶妙寺の智徳法師に師事して陰陽道を修行。式神を使えるに至り、夜な夜な松明(たいまつ)を手にする式神を伴って、現・加古川市東神吉町天下原を経て同町升田まで来て修行を繰り返したという。更に修行のため、式神を井戸に閉じ込めたうえ単身上京し、陰陽師・賀茂保徳に入門。同門に兄弟子・安倍晴明がいた。

式神は毎夜の升田への修行が忘れられず、やるせなさから、井戸を出て火の玉となって東の空へ飛んだという。これが『道満のひとつ火』伝説で、人々が恐れたと聞いている。

一方、道満は晴明の妻李花を唆して『金烏玉兔集』を盗み写したとされる。さらに堀川左大臣藤原顯光の依頼で、政敵関白藤原道長を法成寺で呪殺しようとするが、晴明の術で発覚。本来ならば死罪に処せられるべきところ、道満の方術による祟りを恐れたか、生国の播磨へ帰されるだけで済んだが、京への思いが断ち切れず、石の地蔵を背負って出立する。しかし、天下原で一歩も動けなくなり、地蔵をここに残して諸国遍歴の旅に出たという。

道満の魂が火の玉となって東へ飛んできては、この地蔵に体当たりするため、地蔵は地域住民がいくら起こし直しても常に傾いた。『こけ地蔵』伝説の謂れである。道満の魂は体当たりしながらも、その都度この地蔵に慰められて、岸の地へ帰ったといわれている。この地蔵は天下原北端路傍にあり、もとは石棺の蓋で、その内面に刻まれたものとされている。

(野村退蔵ほか編:加古川の民話 加古川市教育委員会 による。)

 

智徳(ちとく)法師

慶妙寺(現・加古川市東神吉町神吉にあったとされるが、現存しない。郷土史家によると、「中西廃寺」がその跡だろうという)の僧で陰陽師。次のような伝説が残っている。

明石沖で浪速へ品物を運んでいた船が海賊に襲われ、乗組員を多数殺害されたうえ、船もろとも荷物を盗まれた。命からがら逃げた船主と船頭2人から、そのことを聞いた智徳法師は「取り返してやろう」と漁船を借り受けて、3人の案内で沖に出、その盗難場所で呪文を唱えて帰浜し「7日だけ待て」と申し渡した。果たして7日後、船も荷物も無事戻ったという。智徳法師が海賊たちを改悛させたため、以後明石沖に海賊は出没しなくなった。式神を使った術であったと伝わっている。(前出の加古川の民話 による。)

 

【退位後も続く色好み】

2年で天皇の座を降り法皇となった後も好色の趣味を止めることなく女性と関係を持った。下記の「長徳の変」と呼ばれる逸話がある。花山法皇奉射事件ともいう。

花山法皇は藤原為光の娘でかつて自分の女御であった忯子の妹・三の君のもとに通い始めた。三の君の妹・四の君のもとには摂政関白内大臣・藤原道隆の三男である藤原伊周(これちか)も通っており、伊周はそこで法皇の姿を見かけ、花山法皇が四の君のもとに通っているものと誤解して対応を弟・隆家に相談。隆家は従者の武士たちとともに法皇を矢で襲撃した。法皇は袖を射られただけだったが、従者の童子2人が殺害されたとも伝わる。法皇は出家の身でありながら女性通いをしていることを恥じて沈黙を続け、また閉じ籠って二度と屋敷に通うことはしなかったものの、噂はすぐに広まった。道長が上手くこれを利用して、伊周・隆家(中関白家)はそれぞれ大宰府・出雲国に流罪とした。これにより中関白家は道長に政治的に敗北し没落の道を辿った。

また、こんな事実もある。

花山法皇には、正式な后妃として、流産死した忯子のほか、3人の女御(藤原姚子、藤原諟子、婉子女王)があったがが、いずれも子に恵まれなかった。出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して男子をなした。世の人は中務の腹に儲けた清仁(きよひと)親王を「母腹宮(おやばらのみや)」、平子の腹に儲けた昭登(あきなり)親王を「女腹宮(むすめばらのみや)」と呼んだ。2人の皇子は複雑な家庭環境に鑑みて冷泉院の猶子(ゆうし)となり、それぞれ冷泉院の五宮・六宮として親王宣下を受けて同院のもとで育てられた。次いで誕生した第3皇子は醍醐寺で出家して覚源(かくげん)と称し最後は伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)に就任したという。

なお『栄花物語』などによれば皇女4人のうち、平子腹の皇女1人だけが成長したが、夜中に路上で殺され野犬に食われた酷たらしい姿で発見された。この事件は容疑者として捕縛された法師が藤原道雅(伊周の子)の命で皇女を殺害したと自白したが、盗賊の首領が自首をして、藤原道雅からの指示という点は有耶無耶になってしまったらしい。

花山法皇は、これより前、藤原伊尹の末娘(花山天皇の母・藤原懐子の異母妹で花山天皇には叔母にあたる)九の御方を寵愛していたが、中務や平子等と懇ろになると異母弟の為尊親王を薦めて九の御方と結婚させたと伝わる(『栄花物語』)。

 

猶子(ゆうし)

兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度で、「なほ子のごとし(あたかも実子のようである」)という意味。平安時代より貴族社会を中心に行われ、平安時代後期までは猶子と養子の違いは明確ではなかったといわれている。

 

【仏法帰依】

『大鏡』は、出家後、熱心に修行して詣でないところがないくらいだったと記している。熊野権現参詣の途中、千里の浜というところで気分が悪くなり、石を枕に休憩している際に、漁夫が塩を焼く煙の立ち上がるのを見て、随分心細い思いをしたことや、比叡山根本中堂で他の法師の法力競争に加わって、その法力が証明されたことなどを紹介している。

 

華頂山元慶寺(がんけいじ/がんぎょうじ)

現・元慶寺は京都市山科区花山河原町13。

ただ、旧地は現在地の北西の山上であったという説、現在地の西であったという説などがあり、定かでない。

花山法皇はこの元慶寺で出家し「入覚」と称した。その後、書写山円教寺の性空上人(しょうくう しょうにん)に結縁、比叡山や熊野権現で仏道修行に励んだ。正暦年間(990-995年)に帰京し、ここに住んだという。

花山法皇との関係から、西国三十三観音霊場巡りの番外札所となっている。

 

西国三十三観音霊場巡りの起源

徳道上人(656~735)は書写山にほど近い播磨国揖保郡矢田部の里で生まれ、長谷寺を開創し、法起院に住した。上人は62歳の時、病で仮死状態に陥った際、冥土で閻魔大王に出会い衆生の滅罪消滅と救済のために三十三箇所の観音霊場を巡る託宣を受けて、起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻り観音信仰の流布に努めた。しかし当時は世に浸透せず巡礼は発展しなかったらしい。徳道上人は巡礼の機が熟するのを待つため、授かった起請文と三十三の宝印を中山寺の石の櫃(からと)に納めたと伝わっている。

因みに、霊場が三十三所に定められたのは、『法華経』普門品観音経(ふもんぼん かんのんぎょう)に説かれる観音菩薩が三十三の姿をあらわして衆生を救済するという三十三身(さんじゅうさんじん)の教えに基づくと考えられている。

その約270年後、花山法皇は元慶寺での出家の直後に書写山円教寺開基の性空上人を訪ね、上人の勧めに従い河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人と共に三十三所霊場を巡礼したことから、貴族達の観音信仰に発展したとされる。巡礼という形で庶民の間で一般化するのは室町時代以降らしい。

 

書写山円教寺

姫路市書写2968

花山法皇は986年(寛和2年)、書写山円教寺開基の性空上人を訪ねた。その頃の性空上人の名は書写上人として都にまで響いていた。その前年、先帝円融上皇病気平癒祈祷のため召されが参内しなかったので、またとない栄達の機会を顧みなかったことで上人の名は一層高まった。橘家の嫡男でありながら、霧島山、背振山で修行を積み、京都文化圏の最果てとも言える播磨の山に独り身を置き、法華経の持経者として歩む姿は、俄然都人の注目を浴びることになったという。性空上人は39歳の時には法華経を全て暗誦し、69歳の折に六根清浄を得て夢に金剛薩埵が現れて直々に胎金の密印を授けられたと伝えられている。これらのことは、院の行幸で一層喧伝され、都人の書写山、上人への憧れが強くなったという。上人の草庵は粗末なものだったが、播磨国司・藤原季孝が円教寺の護持に尽くしており季孝や藤原茂利等との繋がりも法皇を播磨に向かわせた理由一つだったろうと円教寺縁起にみえる。

因みに、拙著『和泉式部の生涯』にも述べたが、和泉式部が当寺を訪ねたとされるのも、そのような事情があったのだろうと思われる。ただ、性空上人の没年などと考証してみると、和泉式部が訪れたのは性空上人の逝去後となり、面接したのは別の僧であったろうと推察される。

さて、円教寺縁起では、法皇は元慶寺で出家し仏道に身を置いたものの、翌月には同腹の長姉を失い姉弟の全てが死に絶えて孤独感が押し寄せ、真の心の安寧は得られなかったのだろうか。新帝即位の日に都を出発して翌日深夜に書写山麓に到着し、上人に対面。その翌日には夢前川河口の英賀から慌ただしく船で還幸。同年、上人の奏請によって圓教寺号を賜り花山法皇の御願寺となって大講堂が造立されたとある。

法皇の西国巡礼の端緒は、性空上人と面談した時、上人が徳道上人が広めようとした観音信仰を伝えたからとされている。

花山法皇は1002年(長保4年)にも再度、行幸。1回目は小人数の陸路だったが、16年後の2回目は船で飾磨津から上陸、従者は84人と盛大な行幸だった。この頃、上人は山上の喧騒を厭い、更に閑地を求めて書写山の北に通宝山弥勒寺を開き住していたこともあり、暴風雨の中で一行はひどく難儀。途中弥勒寺の前の橋が流されていたので、法皇は車を留め置いて徒歩で向かった。当日は終日弥勒寺に逗留し翌日に上人を伴って書写山に登り、小松を持ち帰り、自分自身と東宮、帝とに各3本ずつを植えさせたと縁起は綴っている。さらに、書写山の松を都にまで持ち帰って植えさせるほど上人や円教寺に焦がれたと考えられ「円教(えんぎょう)」という寺号にも上人に対する帰依と、法皇自身の希望も感じられるとしている。

書写山円教寺は西国三十三観音霊場巡り第27番札所

御詠歌は

はるばると 登れば書写の 山颪(やまおろし) 松のひびきも 御法(みのり)なるらむ

 

紫雲山中山寺

宝塚市中山寺2丁目11-1

花山法皇は、ここ中山寺で徳道上人が埋納したとされる宝印を掘り出し霊場を巡拝した。

紫雲山中山寺は西国三十三観音霊場巡り第24番札所

御詠歌は

野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へまいるは 後の世のため

 

花山法皇は、その後、霊場を巡拝する一方で、比叡山にも籠もり、また熊野那智で修行を重ねた。

 

比叡山延暦寺

滋賀県大津市坂本本町4220

花山法皇は獲得した法力をここ延暦寺で試したという逸話は先述のとおりである。

根本中堂で他の法師の法力競争に加わり、護法童子にかけた念力によって、その童子が襖にひきつけられて動けなくなったとして、その法力が証明されたことを『大鏡』が紹介している。

 

那智山青岸渡寺

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8

熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社と一体化し、那智山熊野権現や那智権現と呼ばれ、全体で7寺36坊もの坊舎を有する神仏習合の修験道場であったという。

花山法皇は3年間ここに参篭したとされる。

青岸渡寺は西国三十三観音霊場巡り第1番札所

御詠歌は

補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬

 

花山院菩提寺

三田市尼寺(にんじ)352番地

西国三十三観音霊場巡り第26番札所・法華山一乗寺や同第25番御嶽山(みたけさん)清水寺と同じ法道仙人によって651年(白雉2年)に開基。名の通り花山法皇の菩提を祈る寺。

西国三十三観音霊場巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入ったここ東光山で隠棲生活を送ったとされ、天皇在位中に仕えていた女官たちが法皇を慕い尼僧となって麓に住み着いたという。地名では尼寺だが尼寺があったわけではないそうだ。

西国三十三観音霊場番外札所

御詠歌

有馬冨士 麓の霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風

 

豊山神楽院長谷寺

奈良県桜井市初瀬731番地の1

西国三十三観音霊場巡りの創始者徳道上人がの開基したという説のほかに、それより約40年も前に道明が近隣に開基したという説がある。

西国三十三観音霊場第8番札所

御詠歌

いくたびも 参る心は はつせ寺 山もちかいも 深き谷川

 

開山堂法起院

奈良県桜井市初瀬776番地

西国三十三観音霊場巡りの創始者徳道上人が住した。

西国三十三観音霊場番外札所

徳道上人の御詠歌

極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮(はちす)の へだてやはある

 

【崩御・御陵】

法皇は1008年(寛弘5年)、花山院の東対で生涯を終え、紙屋上陵(現京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。享年40歳。諡は師貞。

 

【おわりに】

花山法皇の年齢にほぼ沿って記しました。拙い纏めですが何かの参考になればと願うばかりです。最後までお付き合いいただき感謝いたします。

おわりにあたって花山法皇のご冥福を心からお祈りいたします。

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