百物語 第十四夜

 小学生の頃、父の車に乗って、家族全員で遠出をしたことがあった。

 もう二十何年も昔の話になるから、それ自体の記憶はほとんどない。

 覚えているのは、帰り道のことだけだ。

 夜だった。

 父が運転をし、母は助手席に乗っていた。私たち…私と姉と妹は、後部座席に並んで座っていた。

 寝つきの良い姉と妹は早い段階で眠りについていたが、普段から眠りの浅い私は、疲れているのに変に目が冴えてしまっていた。

 ひどく退屈していた。

 父も母も疲労のためか黙り込んでいて、相手をしてくれそうにもない。姉と妹の肩を揺すっても、うんうんと唸るばかり。

 窓の外は暗く、鬱蒼と茂った木々の他に見えるものもない。

 電波の入りが悪いのか、車内にはラジオの音が途切れ途切れに聞こえていた。

「…○○さんのことなんやけど…」

 ぽつりと、母がつぶやいた。

 聞いたことのない、陰鬱な声だった。

「やっぱり、もう駄目らしい。年末までもつかどうか」

「医者は?」

 尋ね返す父の声も、やはり暗い。

「何もわからんと。入院はしとるけど、匙を投げとる状態らしい。もう少ししたら、家に帰らされるやろうって」

 聞き覚えのない名前だった。

 興味を持ったが、声の調子からも、子どもには聞かせたくない話なのだろうと予想がついた。

 私は寝たふりを決め込んだ。

「相手は、あの人なんやろう?」

「ああ。まず間違いないやろう。○○さん自身も、他には思い当たらんと言うとるらしいし…」

 隣で眠っていた妹が、ううんと唸り声を上げた。

 途端に、父と母は黙り込んだ。

 しばらくの間、再び静寂が訪れる。

 ラジオのひび割れた音だけが聞こえているのが、なんとはなく気詰まりだった。

 やがて娘たちが眠っていると信じた父と母は、いっそう声を落として話し始めた。

「生霊やなんて…そんなもん、本当におるんやな」

「そうやなぁ。でも、おるんやろうなぁ」

 二人は計ったように黙り込んで、それからはもう何も喋らなかった。

 二十数年が経った今も、父と母のその会話だけは、不思議とはっきり覚えていた。

 法事があって、珍しく家族全員が実家に集まった夜。何の気なしに、私はその当時のことを尋ねてみた。

 狸寝入りをしていたことを叱られるかもしれないとも思ったが、あるいは大人になった今なら、話してくれるかもしれない。そんな期待もあった。

 しかし両親の反応は、私が思っていたものとはまるで違っていた。

「…なんの話?」

 怪訝な顔をして、母は言った。

「確か、○○さんって人やったと思うけど。車の中で話しよったやろう?」

「母さん、知らんで」

 そっけない声だった。

 父も同じだ。

「お前、夢でも見たんちゃうか?」

 嘘を吐いているふうではなかった。

 父の言う通り、あれは夢だったのか。それとも、二人の方が忘れてしまっているのか。

 なんとはなく釈然とせず、首を捻っていると、思わぬところから横槍が入った。

「それって、××の帰りのことじゃない?」

 黙って話を聞いていた姉が、唐突に言った。

 妹が、ああ、と相槌を打つ。

「話し声で目が覚めたんやけど、私も姉ちゃんも寝たふりしてたやつ?」

「そうそう。何の話やったんかは覚えてないけど、ラジオからずうっと声がしよったんよな」

「うん。女の人が、許さない、許さないって。ずっとそう言いよったね」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?