百物語 第十夜
この年になると、小学校時代の記憶などほとんど曖昧ですが、それでも、六年生の夏のことだけは今でもよく覚えています。
気が違いそうに暑かった、あの夏。私の記憶は、母の叫び声から始まります。
「大変よ、ヤエコちゃんが狐に憑かれたと!」
私は座卓に日記帳を広げ、その上に突っ伏しているところでした。
夏休みの間、毎日の出来事をきちんとつけること。先生から厳しく言われていましたが、そうそういつも物珍しいことなどありません。数日目にして、日記は早くも行き詰っておりました。
私が顔を上げるよりも先に、隣の部屋で繕い物をしていた祖母が、転がるようにして表に出てきました。
「なんとまあ、ヤエコちゃんが。今は、どうしよるんなら」
「今はお堂におる。もうすぐ太夫が来る頃やろう。みんな集まっとる、母さんもはよう用意して」
そうして母は、血走った目で私を振り返りました。
「あんたも、すぐに着替えなさい」
狸はどこにでもいるけど、狐なんて見たこともないのに。
母と祖母の後ろについてお堂へと向かう道すがら、私はそんなことばかりを考えていました。
お堂には、既に白装束を着た人たちが大勢集まっていました。
ざわめきの中、遠く、獣の咆哮のような声が聞こえています。
私は母の手を振り払うと、大人たちの間を縫って前に出ました。
お堂の扉は大きく開かれていて、座敷の奥に、ヤエコちゃんが拘束されておりました。
「うーッ、うーッ、うーッ」
獣めいた鳴き声の正体は、やはり彼女でした。
暴れでもしたのでしょう。後ろ手に縛られた細い腕には荒縄が食い込み、うっすらと血が滲んでいました。
「突然倒れたと思ったら、もういけんかったらしい」
「綺麗な子やから。魅入られたんかもわからん」
「かわいそうになぁ」
大人たちの痛ましげな声は、私の耳を素通りして、あっという間にはるかかなたへ遠のいていきました。
「ヤエコ、ヤエコ、しっかりしてやぁ」
ヤエコちゃんに縋りつくようにして、彼女の母親が哀れっぽく嘆いています。私の目はそれを一瞥すると、すぐにまた元の位置へと戻っていきました。ヤエコちゃんは、畳に何度も何度も頭を打ち付けておりました。
やがて太夫がやってきて、祈祷が始まりました。
私はいつしか、瞬きをすることも忘れていました。
あの、賢く気高いヤエコちゃんが。
美しくて、でもそれを少しも鼻にかけなかったヤエコちゃんが。
私がみんなに笑われていたときも、優しく手を差し伸べてくれたヤエコちゃんが。
したたかに打ち据えられ、無様に這いつくばって、よだれを垂らして。
目を血走らせ、意味を成さない呻き声を上げ、髪を振り乱して、畳を舐めている。
ヤエコちゃんが。
あの、ヤエコちゃんが。
祈祷が終わりに差し掛かった頃、ヤエコちゃんはその場に倒れ臥し、ぴくりとも動かなくなっておりました。
太夫の白装束には点々と血の跡が散り、ヤエコちゃんの身体の下では、大量の尿に濡れて畳が色を変えていました。
私は大急ぎでうちに帰りました。
靴を脱ぎ捨て、居間へ上がり、座卓に広げっぱなしだった日記帳に向かって、一心不乱に絵を描きなぐりました。一枚では事足りず、二枚、三枚と頁を使って詳細を記しました。
その夏休みの日記帳は、ヤエコちゃんのことで埋まりました。
日に日に激しくなっていく憑き物落としの様子を。縛られ、打たれ、やつれ細りながら、どんどんと獣じみていくヤエコちゃんの姿を。それでいて、妖しく美しく揺らめく生白い姿態を。
ほんの少しも漏らすまいと、私は毎日毎日お堂へと通い、毎日毎日毎日日記に書きつけました。
それが私の初恋でした。
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