娘が言った「トマトが濡れてるのはなんで」と そもそも「なんで」か 僕は知っているんだろうか
朝ごはん、お皿にはいつもトマトがある。
僕と妻のお皿にはカットしたトマト。
娘のお皿にはミニトマト。
そういえばミニトマト?プチトマト?どっちも使う。
調べるとミニトマトの中でプチトマトという品種があった。現在のプチトマトはミニトマトの愛称として残っている、という事らしい。
僕はプチトマトと言うことが多いかもしれない。これってジェネレーション的な何かが影響しているのかしら。
娘がふと「お父さんのトマトが濡れているのは、なんで」と言った。僕は「トマトは中にお水があるから、切るとそうなるんだよ」と答えた。娘はさらに「なんで、トマトの中には水があるの」と聞いた。僕は「トマトの中にはタネがあって、その周りにはゼリーみたいなのがあるからだよ」と答えた。
よくある「なんで」連打。いくつかのやり取りがあってトマトの「なんで」は終わった。
そのあと、僕は残りのトマトを食べながら思った。
そういえば、「なんで」だろう。
トマトの中にはタネがあって、それの周りにはゼリーみたいなのがあって、それが水っぽくって。そのゼリーはタネを守ったり、タネが育つときの栄養になるもので。とかなんとか。
でもこれは目の前にトマトがあって、結果から理解しているように思っていること。そもそもトマトって、なんでこんな風になっているんだろう。ほかの野菜や果物もそれぞれに、それぞれの方法でタネをつけているけど、「トマトはなんで、こうあるのだろう」。「そもそもトマトとは何だろう」。
そんなことを考えたなら残りのトマトを飲み込んで、お皿を洗って朝のバタバタ。この後は大変な「歯磨き」「おトイレ」「着替え」「靴下はいて」「靴はいて」「保育園まで出発」。ひと揉め、ふた揉めしつつ、朝の時間が過ぎる。
子供の「なんで」。
なんでも「なんで」。
時に疲れる「なんで」。
時々、哲学的なことを聞かれているように勝手に思う。
歴史に名を遺す哲人の考察も、子育てのバタバタの中に起源があったのかもしれない。