芥川龍之介の『僕は』をどう読むか
天才芥川、自殺者芥川、女好き芥川、神経衰弱芥川、時代の寵児芥川、そんなどうしても拭いきれないものを作品におっかぶせて読む愚を、私はずっと否定し続けてきたような気がする。確かに多くの作品にその天才が見られるものの、天才に目が眩んでいては何も見えなくなる。
ある部分はそうであろうし、違うところもあるだろう。
日向の樹木ならば日が当たるのが前で、日が当たらないのが後ろだと普通に思っていた。
人が獣に食われるのは見たくない。血は怖い。
肉親の死を望んだことは無い。
私はなにがしかの良心を持ち、天罰を恐れている。子供はいないが、子供から見て「はずかしいふるまい」は出来るだけ避けたいと思う。チンピラやくざや悪役にはなりたくない。
私は簡単に人を憎む。軽蔑は難しい。できればそうしたいがまずは憎む。そしてすぐに忘れてしまう。
そうそう、あさましい嘘を発見すると軽蔑する。
私はまいばすけっとの店員が「いらっしゃいませ」を「しゃーせ、あしゃーせ」というのを聴いている。それが後輩に遺伝するのも。
私は平野啓一郎の分人主義に呼応するほどの人格を持ち合わせない。ペンネームの数だけ書き分けがあるだけだ。
私はさしたる自尊心を持たない。こき使い、いじめ尽くしている。
私は医者を言葉巧みに誘導し自分の見立てにそう判断に導こうとする。そのためには歯がかゆいとも言う。医者は歯にかゆみを感じることはありませんという。歯医者でもないのに。
私は距離をマイルでは勘定しない。飛行機に乗ると人格が曖昧になるかもしれない。
私の精神生活は……精神生活なんてものがあるとは考えもしなかった。そんなものがあるとして跳ねも歩きもしない。たぶんぐるぐる渦を巻いている。
私はお辞儀をスルーされるとホッとする。余計な会話をしなくていいし、義理は果たしたことになるから。
私は芥川龍之介とこんなに違う。しかしそんなに違わない気がする。そして芥川龍之介を異常者だとか狂人だとか思わない。案外普通なのではないかと。お前なんぞに何が解るものか、と言われても困る。そりゃ、両親を虎に食わせたら異常だが、この程度のことは私でない誰かと少しずつ一致するだろう。
天才=変人というのはあさはかな偏見だ。外見の怪異なるものに特殊な能力があると見做す伝統も偏見だ。
そしておそらくこの答え合わせが日によって変わるように、ここには嘘ではない偶然が紛れ込んでいる。
そうでなければ……「何人かの僕自身がいつも喧嘩する」わけはないのだ。その矛盾ごと「僕」なのだろう。
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