三島由紀夫の『軽王子と衣通姫』をどう読むか① 天皇と詩と詩人と
戦後三島作品に最初に現れる天皇は『サーカス』における団長であり、悪役だ、と書いたような気がする。それ以前に天皇が現れるのがこの『軽王子と衣通姫』ということになる。
とはいえ物語は雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさつまわくこのすくねのすめらみこと)の崩御後という絶妙のタイミングで始まる。雄朝津間稚子宿禰天皇は既に「先皇」と呼ばれていて、その姿は既に「おん亡骸」としてあるのである。
時代は古代である。「日本書紀」の「雄朝津間稚子宿禰天皇」は第十九代天皇の允恭天皇であり、その長男は木梨軽皇子。
これも三島由紀夫らしく天皇の黒歴史を突いてきたという所か。なんというか、このあたりの天皇と王子の関係は生々しい。
回想の中で天皇は皇后の妹、衣通姫とセックスする。
セックスをかくも優美に表現するやり方があったものである。幸しとは恐れ入った。
実は今更『軽王子と衣通姫』を読み返すのは、詩をかく少年が詩を捨てるタイミングを確認したかったのと、三島由紀夫が偽詩人であったのかどうか、そして萩原朔太郎からも佐藤春夫からも詩人であることを否定された芥川にかけていたものは何か、飯島耕一は萩原朔太郎推しだが三島由紀夫は北原白秋と中原中也、立原道造は好きだがリストには萩原朔太郎はなかったのはどうしてか、などとあれこれ考えたからなのである。
室生犀星に関しては何となくわかるような気がする。詩集だけ読んでみると「素朴な人だな」と思う。しかし小説なども読み、改めて詩を読むと、どうしても「うーん、素朴だな」と思わざるを得ない。系列としては武者小路実篤の方に置きたくなってしまうから困る。
しかし三島由紀夫、というより平岡公威にとって萩原朔太郎はどうなんだろうと考えると、何か明確に読み落としがあるような気がしてくる。そういえばなんでリストにないのかと。中原中也がなければまあそれでもいいのだ。しかし中原中也は読んでいる。どういうことや? と考えながら、とりあえず戦中から戦後にかけての詩人三島由紀夫の正体を確認したいと思ったのだ。
一言でいえば、ここには原始的で呪術的な言葉などひとかけらもなく、そういうものがけして挟み込まれないようにむっちりと形式がはめ込まれている。言文一致の地の文ながら語彙は紅葉露伴の近代文学を飛び越えている。それでも読めてしまうから不思議である。これはけして文語文ではないのだ。和語のしなやかさ、抽象表現。美文である。
彼は偽物の詩人であろうか。
とてもそうは思えない。「姫は優諚を辞(いな)みえぬわが心に不吉な魅はしの翳が襲ふのを知つた」と詩人以外が書けるものであろうか。
恥を知らない太陽の光は、と詩人芥川は書いた。
詩とそうでないものの違いを示そう。
アサヒスーパードライの六缶パックを手にしてほしい。そこにあるキャッチは?
飲んだ瞬間の飲みごたえ
これは詩ではない。
平岡公威はこの時詩人だった。
そもそも自分は偽詩人だという本人の弁に無理があるのではなかろうか。
[余談]
そういえばたまたまやけどわしも朔太郎あんましやったな。
なんでやろ。