岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する144 夏目漱石『道草』をどう読むか⑳ この話者は信用できない
不思議な位寛大であった
そう書かれているものの、ここで島田夫妻のふるまいに関して具体的に書かれている内容自体は少ない。島田夫妻は背景に留まり、その目は小僧や独楽、蟹、あるいは健三自身に向けられている。「彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった」というところからは随分情報が増えてきた。しかし増えた情報が全て記憶の底から引き揚げられたものではない。「要するに」とは具体的な事実を捨てたところで現れる抽象的な理屈である。その理屈で考えてみれば、例えば「吝嗇」などという概念や言葉そのものが子供のものではない。それは誰かから後に与えられたラベリングだ。漱石は記憶と云うものがそのように構成されたものであることを意識している、のか?
御前はどこで生れたの
ここで島田夫婦は健三に偽物の記憶を植え付けようとしているように見える。養子なのに実子のように仕込もうとしているように見える。初見ではそう見える筈だ。そこに島田夫婦の養子に対する愛情を見るか、浅ましさを見るのかはそれぞれの自由な感想と云うことになる。
しかし一旦この理屈を捉えてしまえば、ここは全く違った話に見えてくる。
つまり「御前はどこで生れたの」とは決して正解のない問いとして現れて來る。あるいは「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」という問いは、干支と九星のロジックを暗示している。
ここで健三は島田夫妻に操られるままにその望む答えを返している。しかしそれはそもそも本人が答えられる問いではないのだ。幼児健忘という仕組みにより、自分がどこで生まれたかということはまず大抵の人はそもそも「知らない」のだ。本当の両親などまさに知りようもない。それは誰かから教えられるものでしかない。
生々しい話をしてしまえば、母のお産を手伝った娘ならば、弟の母親が誰なのかということは解るだろう。その子供がどこかですり替えられなければ、娘は弟の母が解る。
しかしその娘が弟の干支と九星を知っているのに、弟が自分が十五歳の年の正月に生まれたという記憶がないとしたら、何もかも曖昧である。
実際この「御前はどこで生れたの」という問いに答えられる人は健三の「実母」だけであろう。しかし『道草』は徹底して健三の「実母」を隠す作品だ。健三の「実母」を隠すことで、島田夫妻はただの身勝手な養父母ではなくなる。
島田夫妻の記憶はすっとは出てこなかった。彼らに仕込まれた偽の記憶はどこかで清算され、組み替えられねばならなかった筈だ。一旦は信じていたものが捨てられたところで、そこを埋めるのは矢張り記憶そのものではなく単なる情報である。健三は丁度幼児健忘の仕組みが働く切り替えポイントで実家から捨てられたていになっている。
捨てられたという記憶そのものが消えてしまっているのだからどうしようもない?
果たしてそうなのだろうか?
御前本当は誰の子なの
幼児健忘とは大人になると幼児期の記憶がなくなる症状のことであり、二歳児は昨日何を食べたのか、アンパンマンの敵は誰なのかという記憶を保持しているだろう。ここで健三は「向うの望むような返事」というものがあり、それとは別の答えがあることを知っていたと告白している。
実母に「御前本当は誰の子なの」と訊かれて、答えに躊躇し、忌み悪む子はあるまい。「御前本当は誰の子なの」と訊かれて、「苦しめられるような心持」になることもあるまい。
健三は確かに何かを知っているのだ。そして隠している。
あるいは健三が確かに知っていることは「そうではない」ということだけなのかもしれない。元々は白紙だったのだ。そこから記憶は随分掘り下げられた。掘り下げられた底にまだ蓋がある、のか?
自然のために彼らの不純を罰せられた
養父母が養子の歓心を買うために親切を見せることを不純とまで言ってしまうのはいささか手厳し過ぎるようにも思える。元々自然な親子でもないところに不自然が出てしまうのは仕方がないことではなかろうか。ましてやそもそも養子とは親の都合で子供をやり取りする仕組みである。親切なだけありがたいのではなかろうか。
……などと健三の勝手を批判しても仕方ない。この負の感情は今更のように取り出されたもの、「金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように」という喩えを子供はしないだろう。
ここには二つの読みの可能性があるだろう。
①健三は養父母の不純な親切に対する嫌悪感ごと消し去るために島田夫妻に育てられた記憶に蓋をしていた。
②長太郎から与えられた情報等に基づいて、白紙だった記憶が理屈で再構成されつつある。
古い書きつけがどんどん出てくるように、無かった記憶がどんどん出てくることは普通はない。普通はないけれどもとにかくそういう様子を書いている。何か矛盾しているようにさえ思えてくる。何しろ最初は白紙だったのだ。
あるいは、
③健三が全部思い出している訳ではなく、話者が代わりに思い出して健三に記憶を与えている。
こうは読めないものであろうか。話者はここで「しかも自ら知らなかった」と島田夫妻の過去の記憶にまで勝手に立ち入っている。ならば健三の記憶に残っていない健三の過去を健三とは別の所に保存していてそれを今更取り出してきたということがないわけではなかろう。
この読みは話者と主人公の関係に関してはいささか奇抜に思える読みかもしれないが、そもそも話者が健三を待ち受けていたことを想えば、そして「東京を出てから何年目になるだろう」と自問したのが話者自身なのだとしたら、そもそもそうした設定そのものが奇抜なのであり、白紙だったところからどんどん詳細な過去が現れることも矛盾ではなくなる。
今まで誰もそんな事を書いてきていないから、きっとこの話は出鱈目と思いたい人は、ただ現状維持のバイアスに陥っているだけだ。
ここには奇抜な読み手ではなく奇抜な話者がいる。
そして夏目漱石と云う奇抜な作家も。
我知らず常にどこかに働らいていた
確かに健三は「彼女を忌み嫌う心」を「我知らず」にいて、話者だけがそんな健三の過去の心理状態を正確に捉えている。ここでは健三が過去の記憶を告白している訳ではない。健三の過去を得意げに語っているのは話者なのだ。
御常を「すぐ涙を流す事の出来る重宝な女」と断ずるのも話者、「健三をほんの小供だと思って気を許していた」と御常の心に入り込むのも話者、「その裏面をすっかり彼に曝露して自ら知らなかった」と御常の気が付かないところにも気が付いているのも話者なのだ。「いくら御常から可愛いがられても、それに酬るだけの情合がこっちに出て来得えないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである」という人物評は話者のものである。
そんな何でも知っていそうな話者なのに、「東京を出てから何年目になるだろう」と曖昧に自問する。
この話者は信用できない。
[余談]
よくよく読めばと何度も書いているけれど、それだけよくよく読めていなかったということだ。「東京を出てから何年目になるだろう」なんて文字列は何百回読んだかわからないのにまだ意味が隠れている気がする。
こんな『道草』を読んだつもりになっている人はどうかしている。