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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する144 夏目漱石『道草』をどう読むか⑳ この話者は信用できない



不思議な位寛大であった

 しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈の羽織を着せたり、縮緬の着物を買うために、わざわざ越後屋まで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択より分けている間に、夕暮の時間が逼ったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。
 彼の望む玩具は無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も交っていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟の影を映して、烏帽子姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい独楽を買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際の泥溝の中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場の柵と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹の穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕りにして袂へ入れた。……
 要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰い受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。

(夏目漱石『道草』)

 そう書かれているものの、ここで島田夫妻のふるまいに関して具体的に書かれている内容自体は少ない。島田夫妻は背景に留まり、その目は小僧や独楽、蟹、あるいは健三自身に向けられている。「彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった」というところからは随分情報が増えてきた。しかし増えた情報が全て記憶の底から引き揚げられたものではない。「要するに」とは具体的な事実を捨てたところで現れる抽象的な理屈である。その理屈で考えてみれば、例えば「吝嗇」などという概念や言葉そのものが子供のものではない。それは誰かから後に与えられたラベリングだ。漱石は記憶と云うものがそのように構成されたものであることを意識している、のか?

御前はどこで生れたの

 しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
 彼らが長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父っッさんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼を指さした。
「じゃ御前の御母さんは」
 健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
 これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊きいた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
 健三は厭々ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故だか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。
 或時はこんな光景が殆ど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃かった。
「御前はどこで生れたの」
 こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪たかやぶで蔽れた小さな赤い門の家を挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支えなく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向頓着しなかった。

(夏目漱石『道草』)

 ここで島田夫婦は健三に偽物の記憶を植え付けようとしているように見える。養子なのに実子のように仕込もうとしているように見える。初見ではそう見える筈だ。そこに島田夫婦の養子に対する愛情を見るか、浅ましさを見るのかはそれぞれの自由な感想と云うことになる。

 しかし一旦この理屈を捉えてしまえば、ここは全く違った話に見えてくる。

 つまり「御前はどこで生れたの」とは決して正解のない問いとして現れて來る。あるいは「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」という問いは、干支と九星のロジックを暗示している。

 ここで健三は島田夫妻に操られるままにその望む答えを返している。しかしそれはそもそも本人が答えられる問いではないのだ。幼児健忘という仕組みにより、自分がどこで生まれたかということはまず大抵の人はそもそも「知らない」のだ。本当の両親などまさに知りようもない。それは誰かから教えられるものでしかない。

 生々しい話をしてしまえば、母のお産を手伝った娘ならば、弟の母親が誰なのかということは解るだろう。その子供がどこかですり替えられなければ、娘は弟の母が解る。
 しかしその娘が弟の干支と九星を知っているのに、弟が自分が十五歳の年の正月に生まれたという記憶がないとしたら、何もかも曖昧である。

 実際この「御前はどこで生れたの」という問いに答えられる人は健三の「実母」だけであろう。しかし『道草』は徹底して健三の「実母」を隠す作品だ。健三の「実母」を隠すことで、島田夫妻はただの身勝手な養父母ではなくなる。

 島田夫妻の記憶はすっとは出てこなかった。彼らに仕込まれた偽の記憶はどこかで清算され、組み替えられねばならなかった筈だ。一旦は信じていたものが捨てられたところで、そこを埋めるのは矢張り記憶そのものではなく単なる情報である。健三は丁度幼児健忘の仕組みが働く切り替えポイントで実家から捨てられたていになっている。

 捨てられたという記憶そのものが消えてしまっているのだからどうしようもない?

 果たしてそうなのだろうか?

御前本当は誰の子なの

「健坊、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」
 彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」
 健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。 彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ年歯の行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み悪んだのである。

(夏目漱石『道草』)

 幼児健忘とは大人になると幼児期の記憶がなくなる症状のことであり、二歳児は昨日何を食べたのか、アンパンマンの敵は誰なのかという記憶を保持しているだろう。ここで健三は「向うの望むような返事」というものがあり、それとは別の答えがあることを知っていたと告白している。
 実母に「御前本当は誰の子なの」と訊かれて、答えに躊躇し、忌み悪む子はあるまい。「御前本当は誰の子なの」と訊かれて、「苦しめられるような心持」になることもあるまい。

 健三は確かに何かを知っているのだ。そして隠している。

 あるいは健三が確かに知っていることは「そうではない」ということだけなのかもしれない。元々は白紙だったのだ。そこから記憶は随分掘り下げられた。掘り下げられた底にまだ蓋がある、のか?

自然のために彼らの不純を罰せられた


 自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から叩き込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は蒼蠅さがった。
「なんでそんなに世話を焼くのだろう」
「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は己れ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう玩具を喜んだり、錦絵を飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を嬉しがらなくなった。少なくとも両つのものを綺麗に切り離して、純粋な楽みに耽りたかった。
 夫婦は健三を可愛がっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得るために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも自ら知らなかった。 

(夏目漱石『道草』)

 養父母が養子の歓心を買うために親切を見せることを不純とまで言ってしまうのはいささか手厳し過ぎるようにも思える。元々自然な親子でもないところに不自然が出てしまうのは仕方がないことではなかろうか。ましてやそもそも養子とは親の都合で子供をやり取りする仕組みである。親切なだけありがたいのではなかろうか。

 ……などと健三の勝手を批判しても仕方ない。この負の感情は今更のように取り出されたもの、「金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように」という喩えを子供はしないだろう。

 ここには二つの読みの可能性があるだろう。

①健三は養父母の不純な親切に対する嫌悪感ごと消し去るために島田夫妻に育てられた記憶に蓋をしていた。

②長太郎から与えられた情報等に基づいて、白紙だった記憶が理屈で再構成されつつある。

 古い書きつけがどんどん出てくるように、無かった記憶がどんどん出てくることは普通はない。普通はないけれどもとにかくそういう様子を書いている。何か矛盾しているようにさえ思えてくる。何しろ最初は白紙だったのだ。

 あるいは、

③健三が全部思い出している訳ではなく、話者が代わりに思い出して健三に記憶を与えている。 

 こうは読めないものであろうか。話者はここで「しかも自ら知らなかった」と島田夫妻の過去の記憶にまで勝手に立ち入っている。ならば健三の記憶に残っていない健三の過去を健三とは別の所に保存していてそれを今更取り出してきたということがないわけではなかろう。

 この読みは話者と主人公の関係に関してはいささか奇抜に思える読みかもしれないが、そもそも話者が健三を待ち受けていたことを想えば、そして「東京を出てから何年目になるだろう」と自問したのが話者自身なのだとしたら、そもそもそうした設定そのものが奇抜なのであり、白紙だったところからどんどん詳細な過去が現れることも矛盾ではなくなる。

 今まで誰もそんな事を書いてきていないから、きっとこの話は出鱈目と思いたい人は、ただ現状維持のバイアスに陥っているだけだ。

 ここには奇抜な読み手ではなく奇抜な話者がいる。

 そして夏目漱石と云う奇抜な作家も。


我知らず常にどこかに働らいていた

 御常は非常に嘘を吐く事の巧い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露して自ら知らなかった。
 或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上った甲という女を、傍で聴いていても聴きづらいほど罵った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞めていた所だというような不必要な嘘まで吐ついた。健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」
 彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝した。甲の帰ったあとで御常は大変に怒った。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
 健三は御常の顔から早く火が出れば好い位に感じた。
 彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛いがられても、それに酬るだけの情合がこっちに出て来得えないような醜くいものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである。そうしてその醜くいものを一番能く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々ッ子に外ならなかったのである。

(夏目漱石『道草』)


 確かに健三は「彼女を忌み嫌う心」を「我知らず」にいて、話者だけがそんな健三の過去の心理状態を正確に捉えている。ここでは健三が過去の記憶を告白している訳ではない。健三の過去を得意げに語っているのは話者なのだ。
 御常を「すぐ涙を流す事の出来る重宝な女」と断ずるのも話者、「健三をほんの小供だと思って気を許していた」と御常の心に入り込むのも話者、「その裏面をすっかり彼に曝露して自ら知らなかった」と御常の気が付かないところにも気が付いているのも話者なのだ。「いくら御常から可愛いがられても、それに酬るだけの情合がこっちに出て来得えないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである」という人物評は話者のものである。

 そんな何でも知っていそうな話者なのに、「東京を出てから何年目になるだろう」と曖昧に自問する。

 この話者は信用できない。



[余談]

 よくよく読めばと何度も書いているけれど、それだけよくよく読めていなかったということだ。「東京を出てから何年目になるだろう」なんて文字列は何百回読んだかわからないのにまだ意味が隠れている気がする。

 こんな『道草』を読んだつもりになっている人はどうかしている。




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