よく考えてみると、芥川の時代には編集者という仕事があり、校正迄は行っていたとして、まだ校閲という仕事は確立していなかったのではないか。そんな風に思い調べてみると、
ずっと昔から職業、あるいは仕事上の役割として編集人と並んで成立していたことが解る。だから仮に何か間違いがあったとしても、それは芥川だけが責められる話ではないのだ。
ところで芥川龍之介の『鴉片』という作品は殆ど世間に認知されていないようだ。
こう書き始められているにも関わらず、クロード・ファレールのウィキペディアの記事には堀口大学に関する記述はない。
矢野目源一のことも書かれない。芥川龍之介作品はほとんど顧みられることがないのだ。
残念ながら。
これを読むと芥川龍之介が鴉片の匂いを嗅いだことがあることが解る。そして芥川が青々の発句を間違えて記憶していることが解る。しかしそんなことを誰も指摘しない。
初冬や谷中わたりの墓の菊、が谷中あたりに転じている。
この方はそのことには気がついていないようだ。
ちなみに「初冬や谷中わたりの墓の菊」でグーグル検索すると「検索条件と十分に一致する結果が見つかりません」と表示されてしまう。つまりこの句は芥川の記憶のままに読み替えられた形でしか残らなかったのだ。
願わくば百年の後の世に我が句一首あれかしと松瀬青々は望まなかっただろうか。
ちなみに松瀬青々の語彙に於いて「だいたいそのへん」という言葉が「わたり」であり、
逆に「あたり」は「だいたいそのへん」ではなく「そのまわり」「周囲」という意味に限定されているようである。そういう意味では芥川はたまたま「初冬や谷中わたりの墓の菊」を間違えて記憶しただけで、松瀬青々の句を一語一語味到したわけではなさそうだ。
残念ながら。
こうして「虞美人草」を持ち出しながら、「夏目先生の……」と余談に走らない。千駄木の先生から顔を背けながら、ついつい「谷中の……」と書いてしまう芥川のツンデレが可愛い作品が『鴉片』である。
なおこの「谷中」と漱石の関係に関しては『夢』という昭和二年の作で、なおゆるくゆるくからむ。
この「本郷東片町」は『虞美人草』を書いていた頃の漱石邸宅があった場所である。何だか付いているような付いていないような話に思えるが、この辺りを歩いて芥川が漱石のことを思わないことはむしろかなり不自然なことではなかろうか。小説で言えばまだたまたまで逃げられるが、これが俳句なら付いていると認めざるを得ないだろう。
この谷中の話はもうすこしゆるくゆるく続く。
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【余談】
萩原朔太郎が言うんだから、まあそうなのだろう。昭和四年、谷崎は眼光鋭い野獣のような顔をしていた。