荷田春満に関するメモ
幼名は鶴丸(かくまろ)
幼名は鶴丸(かくまろ)と稱し、初名は信盛、後東丸と改め、後年更に東麻呂或は春滿の字を使用して居る。通稱は齋宮と呼ばれて居た。(『創学校啓-国学の建設』竹岡勝也 [著]内閣印刷局 1940年)
国学の本道
信用されていない
山田孝雄は荷田春満を無視
秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息
この「朝霞」について、「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される山田孝雄は、
と断じる。なるほど宣長、契沖も読みは「アサガスミ」だ。しかし荷田春満ただ一人、
と独自解釈を残している。なるほど「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ」と読み「秋の田の稲穂にかかる一面のあさ霞、どちらの方向に向かって恋続ければこの思いが止むことでしょう」とする当たり前の解釈に対して、荷田春満の読みは「霧らふ朝霞」のふらふらしたところを突いている。「あなたが住んでいる」の意が加わる事で、ぐんと恋の歌らしくなる。しかし山田孝雄は無視する。
「朝霞≒我背が住み」はやはり強引
朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方
荷田春満の解釈ではこの歌は「私の夫が住む山の谷間で鳴いているカジカガエルの声でも聴くことが出来れば恋しく思わないのに」という意味になる。この説は弟子たちから完全に無視される。
朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ
殺目山行き返り道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ
朝霞たなびく山を越えて去なば我れは恋ひむな逢はむ日までに
朝霞春日の暮は木の間より移ろふ月をいつとか待たむ
朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
……などを我背が住みに置き換えると歌意が解らなくなる。そもそも朝でなくとも、
春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜にひとりかも寝む
心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば
大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
春霞井の上ゆ直に道はあれど君に逢はむとた廻り来も
隠口の泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ
……と霞はそもそも立ったりなびいたりするものなので、やはり「吾背」は強引な解釈。「かけた」という可能性は否定できないが。
尻目縄の訓は本当