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谷崎潤一郎の『蘆刈』をどう読むか②  それはデッドコピーというものだ

 今更書くのもなんだけど、『蘆刈』って、

君なくてあしかりけりと思ふにも
   いとゞ難波のうらはすみうき

(谷崎潤一郎『蘆刈』)

 ……という歌に懸けるとシンプルに『蘆刈』→「悪しかり」なんだよね。つまり頭に駄洒落、地口を持ってきたわけだ。これは作法としては言葉の二重性というか、そうとも読めるというか、別の意味を捜せという合図なんだよね。で、何が「悪しかり」なのか探せって言うことだよね。

 つまり「ゆうこく」が「夕刻」だけではなく「憂国」ともなるわけだ。そういえばやたらひらがながおおいとおもったよ。ひらいてよめといういみなのだな。そうならそうといってくれればいいものをなんだかよみにくいなとおもったよ。だいたいさんじすこしすぎはまだゆうこくじゃないよね。水瀬川もみなせ川と書いたりして、何かしかけているな、潤一郎!

 山崎は山城の国乙訓郡にあって水無瀬の宮趾は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。すこしゆくとみちがふたつにわかれて右手へ曲ってゆく方のかどに古ぼけた石の道標が立っている。それは芥川から池田を経て伊丹の方へ出るみちであった。荒木村重や池田勝入斎や、あの『信長記』にある戦争の記事をおもえばそういうせんごくの武将どもが活躍したのは、その、いたみ、あくたがわ、やまざきをつなぐ線に沿うた地方であっていにしえはおそらくそちらの方が本道であり、この淀川のきしをぬってすすむかいどうは舟行には便利だったであろうが蘆荻のおいしげる入り江や沼地が多くってくがじの旅にはふむきであったかも知れない。

(谷崎潤一郎『蘆刈』)

 陸路、「くがじ」を開いたらもう意味が解らないぞ、潤一郎! それにしてもなんちゅう書き方だ。これ、本当はどこかを縦読みすると、「ドーハの歓喜」とかメッセージが出て來る奴だろ。まずもって文章が「悪しかり」だな。「その、いたみ、」が「その痛み」に見えるぞ。

そういえば江口の渡しのあとなどもいま来るときに乗ってきた電車の沿線にあるのだときいている。げんざいではその江口も大大阪の市内にはいり山崎も去年の京都市の拡張以来大都会の一部にへんにゅうされたけれども、しかし京と大阪の間は気候風土の関係が阪神間のようなわけには行かないらしく田園都市や文化住宅地がそうにわかにはひらけそうにもおもえないからまだしばらくは草ぶかい在所のおもむきをうしなうことがないであろう。

(谷崎潤一郎『蘆刈』)

 いや、しかし、何かが仕掛けられているようにも思えるもの、まだこれという地口は見つからない。「わかにはひらけそうにもおもえない」が「和歌には開けそうもない」なのか? 「きをうしなうことがない」が「気を失うことがない」なのか「古都がない」なのか?

 忠臣蔵にはこの近くのかいどうに猪や追い剥ぎが出たりするように書いてあるからむかしはもっとすさまじい所だったのであろうがいまでもみちの両側にならんでいる茅ぶき屋根の家居のありさまは阪急沿線の西洋化した町や村を見馴れた眼にはひどく時代がかっているようにみえる。「なき事によりてかく罪せられたまふをからくおぼしなげきて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて」と、『大鏡』では北野の天神が配流のみちすがら此処で仏門に帰依せられて「きみがすむやどの梢をゆく/\と」というあの歌をよまれたことになっている。さようにこの土地はずいぶん古い駅路なのである。たぶん平安のみやこが出来たのとおなじころに設けられた宿場かもしれない。わたしはそんなことをかんがえながら旧幕の世の空気がくらい庇のかげにただよっているような家作やづくりを一軒々々のぞいてあるいた。 

(谷崎潤一郎『蘆刈』)

 初期谷崎作品が一貫して反時代的であったことは既に見てきた。

 どういう了見か谷崎は明治という時代を拒否し続けた。なんなら明治天皇の崩御さえスルーした。

 忠臣蔵だの『増鏡』だの『大鏡』だの『信長公記』だのと、この主人公が現実の世界に近代以前の歴史書?をジオタギングするように移動していることは解る。

 しかしその意匠はそもそも国木田独歩の『武蔵野』により汲みつくされてはいまいか。

「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。

(国木田独歩『武蔵野』)

 それともまだここに何か極めるべき意匠が隠されているのか? エルンスト・ブロッホが「あらゆる都市は古戦場である」とかなんとか書いていなかったか。テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルントだったかな。どっちだ? 名前が長いぞアドルノ。

 まあどっちだったとしてもそういうことだ。都市には死体が埋まっているのだ。それがどうした?

 女子フィギィアスケートや女子新体操はめったやたらと脚をぱっかぱっかと開くな。あれは女性特有の柔軟性を表わしているという建前だが、本当はそれだけではなかろう。脚をぱっかぱっかと開くことで、何かを狙っているだろう。そういう感じがひりひりするんだよ。スターダムのカメラアングルくらい怪しいぞ、潤一郎!

 宮居のあとはみなせ川であろうとおもわれる川にかかっている橋をこえてそれからまたすこし行ったあたりの街道からひだりへ折れたところにあった。承久の乱にひとしくふしあわせな運命におあいなされた後鳥羽、土御門、順徳の三帝を祭神として、いまはそこに官幣中社が建っているのだが、やしろのたてものや境内の風致などはりっぱな神社仏閣に富むこの地方としてはべつにとりたててしるすほどでもない。ただまえに挙げた『増かがみ』のものがたりをあたまにおいてかまくらの初期ごろにここで当年の大宮人たちが四季おりおりの遊宴をもよおしたあとかとおもうと一木一石にもそぞろにこころがうごかされる。

(谷崎潤一郎『蘆刈』)

 まさか大宮人に心を寄せているのか? 貴族階級に心を寄せて武士階級を批判しているのか? 今更? まさか現政権が武士階級に担がれた傀儡政権だと言いたいのか?

 わたしは路傍にこしかけて一ぷくすってからひろくもあらぬ境内をなんということもなく往ったり来たりした。そこはかいどうからほんの僅か引っ込んでいるだけだけれども籬にとりどりの秋草を咲かせた百姓家が点々と散らばっている奥の、閑静な、人の眼につかない、こぢんまりした袋のような地面なのである。でも後鳥羽院の御殿というのはこれだけの狭い面積のなかにあったのではなく、ここからずっとさっき通って来た水無瀬川のきしまでつづいていたのであろう。そして水のほとりの楼のうえからかまたはお庭をそぞろあるきなさりながらか川上の方を御覧になって「やまもとかすむみなせ川」の感興をおもらしになったのであろう。「夏の頃水無瀬殿の釣殿にいでさせ給ひて、ひ水めして水飯やうのものなど若き上達部殿上人どもにたまはさせておほみきまゐるついでにもあはれいにしへの紫式部こそはいみじくありけれ、かの源氏物語にも近き川のあゆ西山より奉れるいしぶしやうのもの御前に調じてとかけるなむすぐれてめでたきぞとよ、只今さやうの料理つかまつりてむやなどのたまふを秦のなにがしとかいふ御随身高欄のもとちかく候ひけるがうけたまはりて池の汀みぎわなるさゝを少ししきて白きよねを水に洗ひて奉れり。ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかなとて御衣ぬぎてかづけさせたまふ。御かはらけたび/\きこしめす」とあるのを思いあわせれば、その釣殿の池の水がやがて川の方に連絡していたのではないかと想像される。それに、ここから南の方にあたって恐らくこの神社のうしろ数丁ぐらいのところには淀川がながれているはずではないか。そのながれはいま見えないけれどもむこうぎしの男山八幡のこんもりした峰があいだに大河をさしはさんでいるようでもなくつい眉の上へ落ちかかるように迫っている。 

(谷崎潤一郎『蘆刈』)

 今目の前にある風景を過去の書物の記述の中に一々当て嵌めてみること、それが国木田独歩の『武蔵野』とは全く別の意匠であるかないかは別にして、ここでようやく気が付いたことがある。大抵の小説は「場所を移動して会話する」ことに終始する。しかし一人でふらりと小旅行に出かけたこの主人公は、ここまで誰とも言葉を交わしていない。忠臣蔵だの『増鏡』だの『大鏡』だの『信長公記』だのと会話をしているのだ。こ、これは……。

 もう古いやり口でしかない。
 カーライル博物館を訪れた夏目漱石の傍らには、池田菊苗がいた筈である。しかし『カーライル博物館』では池田菊苗の存在は綺麗にトリミングされて消されている。国木田独歩の『武蔵野』で驚くのは、やはりこのように徹底して会話しないことだ。

 自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。

(国木田独歩『武蔵野』)

 こう書かれてみて初めて、国木田独歩の『武蔵野』が極めて作為的な小説であることが分かる。小金井の堤を散歩した朋友とは、『武蔵野』の作中一言も会話をしていないのだ。それを知らなければそろそろ『蘆刈』にも感心しただろう。ただ国木田独歩の『武蔵野』を知らないで『蘆刈』を読むものもまずあるまい。谷崎自身がそんなことは重々わかっている筈だ。なんなら谷崎は読者に『大和物語』も『大鏡』も「ある程度は」読んでいることを求めている。

 なら、そろそろ何か違うところを見せないと駄目だぞ、潤一郎!
 がつんとやつてくれ、潤一郎!



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