今更書くのもなんだけど、『蘆刈』って、
……という歌に懸けるとシンプルに『蘆刈』→「悪しかり」なんだよね。つまり頭に駄洒落、地口を持ってきたわけだ。これは作法としては言葉の二重性というか、そうとも読めるというか、別の意味を捜せという合図なんだよね。で、何が「悪しかり」なのか探せって言うことだよね。
つまり「ゆうこく」が「夕刻」だけではなく「憂国」ともなるわけだ。そういえばやたらひらがながおおいとおもったよ。ひらいてよめといういみなのだな。そうならそうといってくれればいいものをなんだかよみにくいなとおもったよ。だいたいさんじすこしすぎはまだゆうこくじゃないよね。水瀬川もみなせ川と書いたりして、何かしかけているな、潤一郎!
陸路、「くがじ」を開いたらもう意味が解らないぞ、潤一郎! それにしてもなんちゅう書き方だ。これ、本当はどこかを縦読みすると、「ドーハの歓喜」とかメッセージが出て來る奴だろ。まずもって文章が「悪しかり」だな。「その、いたみ、」が「その痛み」に見えるぞ。
いや、しかし、何かが仕掛けられているようにも思えるもの、まだこれという地口は見つからない。「わかにはひらけそうにもおもえない」が「和歌には開けそうもない」なのか? 「きをうしなうことがない」が「気を失うことがない」なのか「古都がない」なのか?
初期谷崎作品が一貫して反時代的であったことは既に見てきた。
どういう了見か谷崎は明治という時代を拒否し続けた。なんなら明治天皇の崩御さえスルーした。
忠臣蔵だの『増鏡』だの『大鏡』だの『信長公記』だのと、この主人公が現実の世界に近代以前の歴史書?をジオタギングするように移動していることは解る。
しかしその意匠はそもそも国木田独歩の『武蔵野』により汲みつくされてはいまいか。
それともまだここに何か極めるべき意匠が隠されているのか? エルンスト・ブロッホが「あらゆる都市は古戦場である」とかなんとか書いていなかったか。テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルントだったかな。どっちだ? 名前が長いぞアドルノ。
まあどっちだったとしてもそういうことだ。都市には死体が埋まっているのだ。それがどうした?
女子フィギィアスケートや女子新体操はめったやたらと脚をぱっかぱっかと開くな。あれは女性特有の柔軟性を表わしているという建前だが、本当はそれだけではなかろう。脚をぱっかぱっかと開くことで、何かを狙っているだろう。そういう感じがひりひりするんだよ。スターダムのカメラアングルくらい怪しいぞ、潤一郎!
まさか大宮人に心を寄せているのか? 貴族階級に心を寄せて武士階級を批判しているのか? 今更? まさか現政権が武士階級に担がれた傀儡政権だと言いたいのか?
今目の前にある風景を過去の書物の記述の中に一々当て嵌めてみること、それが国木田独歩の『武蔵野』とは全く別の意匠であるかないかは別にして、ここでようやく気が付いたことがある。大抵の小説は「場所を移動して会話する」ことに終始する。しかし一人でふらりと小旅行に出かけたこの主人公は、ここまで誰とも言葉を交わしていない。忠臣蔵だの『増鏡』だの『大鏡』だの『信長公記』だのと会話をしているのだ。こ、これは……。
もう古いやり口でしかない。
カーライル博物館を訪れた夏目漱石の傍らには、池田菊苗がいた筈である。しかし『カーライル博物館』では池田菊苗の存在は綺麗にトリミングされて消されている。国木田独歩の『武蔵野』で驚くのは、やはりこのように徹底して会話しないことだ。
こう書かれてみて初めて、国木田独歩の『武蔵野』が極めて作為的な小説であることが分かる。小金井の堤を散歩した朋友とは、『武蔵野』の作中一言も会話をしていないのだ。それを知らなければそろそろ『蘆刈』にも感心しただろう。ただ国木田独歩の『武蔵野』を知らないで『蘆刈』を読むものもまずあるまい。谷崎自身がそんなことは重々わかっている筈だ。なんなら谷崎は読者に『大和物語』も『大鏡』も「ある程度は」読んでいることを求めている。
なら、そろそろ何か違うところを見せないと駄目だぞ、潤一郎!
がつんとやつてくれ、潤一郎!