見出し画像

漱石のコードとみなまでいわないこと

 赤木昭夫の『漱石のこころ──その哲学と文学』(岩波書店、2016年)では、『坊っちゃん』に関して「山城屋」=「山城屋和助」「質屋の息子勘太郎」=「山縣有朋」「マドンナ」=「山縣に囲われていた芸者、大和、本名吉田貞子」「狸・野だ・赤シャツ」=「山縣・桂・西園寺」とし、「明治寡頭制に対する真正面からの政治風刺」だと断じる。
 まず「山城屋」=「山城屋和助」という見立てはだけに限ればそう強引なものではなかろう。では「質屋の息子勘太郎」=「山縣有朋」に合理性はあろうか。

 山縣有朋は山城屋和助の倅ではない。山城屋和助は山縣有朋の部下である。仮に山縣有朋が山城屋和助の倅であれば「質屋の息子勘太郎」=「山縣有朋」としてもよいだろうが、ここにはどうも理屈が欠けている。「マドンナ」=「山縣に囲われていた芸者、大和、本名吉田貞子」とするならば、せめて赤シャツが山縣でなくてはならないと思うが、「狸・野だ・赤シャツ」=「山縣・桂・西園寺」であれば、実はマドンナは狸に囲われていたのであり、赤シャツの本命は馴染みの芸者であったというようなお話になってしまう。

 それにしても長州藩出身の桂を江戸っ子の幇間にする意味が解らない。赤シャツが西園寺というのもなんともしっくりこない。「野だは大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ」という過剰な憎しみが桂に向けられたものだとして、漱石がここまで桂だけを憎む理由が判然としない。いずれにしても山縣有朋以降のモデル論はバランスを欠くので、山城屋和助ともども全部引っ込めてもらうしかなかろう。

 私は『坊っちゃん』という小説に「明治に対する政治風刺」が含まれているということ自体は否定しない。何かある。何か一言言いたげだ。御一新を「瓦解」と表現するだけで既に反体制的な態度であることは明らかだ。赤木は漱石が検閲を逃れるために巧みにアレゴリーを駆使したとして、漱石のコードを読み解こうとする。検閲を逃れるためかどうかは別として、漱石のコードを読み解こうとする、その方向性自体は正しいのだろうが、そもそも読み解くコードを間違えてはいないだろうか。

 よく読めば『坊っちゃん』には明示的に政治的な文言が使われている。そもそも下女の名前が「清」である。この時代に山城屋と云えば山城屋和助だろうと言うのであれば、「清」は「清國」だろう。
 どういうわけか「清」にだけは可愛がられたということは、漢籍には随分お世話になりましたという意味であろうか。いやいや、実際に漱石がお世話になった漢籍は「清國」のものではなく唐代のものだろう。「清國」は漢民族を制圧した満州人の國である。つまり「清」という名は「清國」のコードではない。「清國」のコードではないが、『門』でも「清」という下女が現れることから、何某かの思いが込められた名ではあるのだ。

 また「西洋館も日本建ても全く不用」とある。これを西洋批判・日本批判と見做しても苦しい。「越後の笹飴」は廃藩置県に対する批判だろうか。そうであればもっとエッジの利いた表現が使われるべきではなかろうか。谷崎は羽前國とまで書いてみる。高田県、清崎県、椎谷県などそういうひっかかる表現は探せば見つかったはずだ。

 其の他「宮芝居」「百姓」「麻布の聯隊」「二十五万石の城下」「天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう」「奏任待遇」「日向の延岡」「クロパトキン」にはさして意味はなかろう。

 ただ「これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ」には「おれ」の漠然とした明治批判が出ていると見てよいだろう。ただ漠然とした批判である。むしろこれは真正面過ぎてごまかしようもないけれども具体性がない。また検閲を恐れて誤魔化す気配も見えない。「世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ」とあるからだ。

 山嵐が「会津っぽ」であることの意味は少しは考えて見ても良いだろう。その山嵐の「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」という言葉には赤シャツに対する厳しい敵意が、まるで『二百十日』のように溢れているように思える。しかしこれも漠然とした批判であり、具体性を欠く。「踏破千山万岳烟」は左遷されるうらなり君への思いだろう。

ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、棚の達磨さんを済して丸裸の越中褌一つになって、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。まるで気違いだ。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この「おれ」のいら立ちも「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろう」という怒りも、明らかに政治的なものを意図しながら、誰の何をどう批判しているのか今一つ明確ではない。「おれ」が「ちゃんちゃん」を殴りつけるという図式では「おれ」が明治政府になってしまう。

 祝勝会で学校はお休みだ。練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 ここにもさしたる毒はない。ただ時代はある。赤木昭夫は「松」もコードだとして意味づけする。ならば『吾輩は猫である』の「首懸 ( くびかけ ) の松」にも、『坑夫』の「松原」にもコードを見なければならないだろう。どこまでが漱石のコードなのか、そう考えた時、まず勝手に話を作らないように注意しながら、コードを拾わなくてはなるまい。
 赤木はその他の作品ではコードを拾わない。みなまでいわないというレトリックも見ない。

「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」(夏目漱石『虞美人草』)

 これは天皇の保証が確かではないという批判であろう。

実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇の時のようでもある。欽明天皇の御代でもさしつかえない気がする。応神天皇や聖武天皇ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。(夏目漱石『三四郎』)

 これも漠然とした天皇批判であろう。

 みなまでいわないというレトリックでは「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました」からの「西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました」というミスディレクションにも注意が必要だ。漱石はここで読者の意識をあらぬ方向に振り向けようとするが、

①先生が乃木大将の遺言状を読み
②軍旗を獲られたわけでもないので乃木静子に死ななければならない理由がないこと

 ……を確認したことは明らかなのだ。乃木大将が妻・静子を生かす前提で書いた遺言状を読みながら、静子の死について一言も触れない不自然、その不自然さによって乃木大将と静と云う名は漱石のコードとなり得るのである。どんな単語、どんな一語でもコードにしてしまえば、ただトンデモ説が出来上がるだけだ。
 赤木は結局コードによる謎解きを『坊っちゃん』だけで止めにしている。それは賢明なことだ。


[付記]山城屋は城戸屋旅館

『坊っちゃん』の宿泊先となる山城屋のモデルは城戸屋旅館とされている。

主人の城戸幡太郎の祖父が大洲藩士であったことから屋号が「大州館」であったものを雅だからと「岱州館」改めたようだ。察するに「岱」の意味が「山」であることから城戸屋旅館の「城」と併せて「山城屋」と捻ったものではなかろうか。

 うらなり君の送別会の行われた「花晨亭」のモデルは「梅廻家」とされるが詳細は解らない。梅廻家では図画教員石川恒年の送別会が催され、中村色男が「紀伊の國」、左氏珠山翁が義太夫、梅木忠升助が「日清談判破裂して」とやったらしい。

 漱石が釣りに行ったのは橫地石太郞教諭と西川忠太郞教頭である。釣った魚は「ゴルキ」ではなく、「ギゾ」あるいは「べら」。「ギゾ」はそのあたりの方言らしく、「キュウセン」と呼ばれる魚である。

 これが「べら」となるともう少し範囲が大きくなる。

 諸説あるものの「ゴルキ」は漱石の創作ではないかと考えられている。

 枡屋は鳥屋、角屋は角半、ついた港は三津濱であろう。師範学校との衝突事件も実際起こったことのようだが、やはり単独モデル説にはあまり意味がないのではなかろうか。

この校長の狸は、住田昇といつて高師出身で相當の人物であつたといふ。

しかもそれが赤シヤツだから人を馬鹿にしてゐる"とある、この"赤シヤツ"のモデルが少々問題だ。夏目、弘中兩氏の着任せる當時の教頭は"二つふくれた豚の腹"の西川教諭、札幌農科出の農學士で赤シヤツを着てゐたことは確かだが、その性格や行動は、坊つちやん"の赤シヤツと全然相違し"色の白い大きな顔の笑ふときは女のやうにホヽヽと口を少さくする癖はあつた"が、戀の鞘當をしたり、策を弄したり、人を穽入れるやうな陰險な小人物ではなかつたといふ。(『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』曽我正堂 著三好文成堂 1937年)

 ともあり、また、

 漱石の「坊つちやん」の赤シヤツ、これは橫地石太郞先生である。先生は赤門出身の古い理學士で、鹿兒島の造士館の教授から、桑野の中學に轉任された。和田校長が靑森の師範へ榮轉された後引き續き校長代理が二人任命されたが、二度目の校長代理は不幸にして生徒達の信賴を失い、二ヶ月ばかりで辭任された。今度は赤門出身の立派な校長が赴任されるというので、生徒達は喜び勇んでいた。横地校長は疎らな頤鬚を垂れ、燕尾服で就任式に臨まれ、生徒達は初めて見た其の異樣の服裝に驚いた。翌日から校長は一年級より五年級に至るまで、全部の生徒の理科方面の教授を擔任され、生徒達は其の學識と教え方の上手なのに敬服してしまつた。われ等の中學は日本一かなあと語り合つて喜んだ。然るに其の後間もなく、寄宿舍の賄騷動が勃發し、次でそれが、多少不評判であつた先生の排斥運動にまで發展し、校長は責任上辭職されることになつた。生徒達は留任を切望したが、責任感の强い校長はこれを聽き入れられず、遂に涙を以て御別れすることになり、其の後先生は松山中學に轉任され、「坊つちやん」の赤シヤツのモデルとして文藝界に興味ある資料を提供された。松山中學より山口高商に轉じ、同校の校長として立派な成績を擧げ、引退後は多年の趣味であつた考古學に沒頭し、先年東京に於ける桑野中學の古物連に招待され、なごやかな師弟の會合に一夕の歡をつくせることもあつたが今は已に故人となつた。(『感謝の生涯』小西重直 著永沢金港堂 1948年)

 ともある。マドンナにふられるうらなり君に漱石が自己投影しているとすれば、文学士の赤シャツも江戸っ子の野だも漱石の一部だろう。

いいなと思ったら応援しよう!