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芥川龍之介の『女』をどう読むか③   何週間かは経過した 

 昨日、夏目漱石の『草枕』が非人情小説と呼ばれていたことに対して、むしろ芥川龍之介の『女』こそが非人情小説なのではないかと書いた。

 実際この作品が書かれたタイミングが悪すぎる。題材は題材としてもう少し寝かせておけばいいものを、まさかというタイミングで書いてしまう。この『女』という小説を読んだ妻がどう思うだろうかという配慮が微塵も感じられない。意地が悪いどころの話ではない。初めての子供が生まれて、その生まれてきた子に情が行くのではなく、子供を産む女に、女の本質、その悪そのもののような不気味さを見るのだから非人情だ。この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。……どころの話ではない。当時としても、いや当時だからこそ不適切であろう。

 何が不適切か?

 この『女』については二回書いて来た。ざっと筋はさらった。しかし勿論書かれていないところにはまだ触れていない。

 書かれていないことが分かる人いますか?

 ちょっと挙手してもらえますか?

 あはは、ゼロですか。

 これ短い話ですよ。でも気が付きませんか。

 書かれていないこと、それはずばり牡蜘蛛の死だ。貢物の少ない牡蜘蛛は既に雌蜘蛛に食われていた。それでも腹を空かせていた雌蜘蛛は蜂を食ったのだ。

 紅い庚申薔薇の花の底に、じっと何か考えていた雌蜘蛛は牡蜘蛛を食ったことなどとうに忘れているだろう。

こう云う残虐を極めた悲劇は、何度となくその後繰返された。

(芥川龍之介『女』)

 この『女』を読んだ直後に何か物を食っている女を眺めてみると、そこに残虐さを感じざるを得ない。それがコンビニのツナマヨおにぎりであってさえ、残虐を極めた悲劇に見えてしまう。鶏五目ならなおさらだ。和風とんこつラーメン御飯と半熟煮玉子おむすびとなればもう直視できない。

 そこには女の本質的な残酷さがある。

 しかしもう一つ、書かれているけれども多分気がつかれていないことがある。だからこの『女』は非人情小説だというポイントがある。

 それは……、

 しかしその円頂閣の窓の前には、影のごとく痩せた母蜘蛛が、寂しそうに独り蹲くまっていた。のみならずそれはいつまで経っても、脚一つ動かす気色さえなかった。まっ白な広間の寂寞と凋んだ薔薇の莟の匂と、――無数の仔蜘蛛を生んだ雌蜘蛛はそう云う産所と墓とを兼ねた、紗のような幕の天井の下に、天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。――あの蜂を噛み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。

(芥川龍之介『女』)


 かすかに甘い匂いを放っていた凋んだ莟が、素枯れた莟が、何週間か経過した後、つまり雌蜘蛛の死の時にあってさえまだ薔薇の匂いを放っているのだ。これは残酷だ。それは年老いたOLが一人、ランチになめこおろし蕎麦を食べている光景に似ている。もう花びらは開かないのにいつまで匂わざるをえないのか。そうどこかでは思いながら、まだカツ丼は食べない。本当はカツ丼が食べたいのに。一人でカツ丼を食べていたら笑われる。そんな思いがどこかにあるのだ。

 まだ匂うのかという、この「女」というものの本質を見通す芥川龍之介の目線はどこまでも冷徹で容赦がない。遠慮がない上に徹底している。しかし案外こうした「かすかに」や「何週間か経過」という細かい仕掛けというものには気が付いてもらえないというのが現実だ。

 兎に角流し読み、飛ばし読み、斜め読みで、済ましているというのが眺者の実態だ。自分なりの感想なんてどうでもいいから、まずは書いてあることをきちんと読むようにすべきだ。「雌蜘蛛」で始まる小説で「牡蜘蛛」のことを考えない人は、カレーライスを垂直に食べて、味がする部分と味がしない部分があるんですね、と言っているようなものだ。

 小説においては、頭とお尻、そして真ん中が特に重要なのだ。



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