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谷崎潤一郎の『戀を知る頃』を読む あるいはサディズム作家谷崎潤一郎について

 六歳から歌舞伎を見て居た谷崎潤一郎にとって、文字を読むより芝居を見る方が馴染みがあっただろうか。おばあちゃん子として芝居に連れまわされたという点で三島と谷崎は共通した素養を持っている。どうも二人は芝居の見方と書き方を知っている。『戀を知る頃』は三幕の芝居仕立ての物語である。近代文学というとすぐ明治の知識人とか、近代的自我とか、そういう話に持って行こうとする近代文学1.0の人には、どうでもいい作品の一つであろうか。しかしどうも夏目漱石的に、いやむしろ村上春樹的に『少年』の設定をわずかに組み替えた焼き直しのような匂いがする。つまりそれが近代文学かどうかはどうでもいいが、何か本人にとっては切実なテーマを掘り下げる(あるいはあるテーマが逃れがたく作家につきまという)という、極めて本質的な作家性とでもいうべきものが現れている作品ではあると言える。それは「お話」を一つ書きました、という形式に関わらず、その形式をはみ出すもの、つまり個々の作品でありながらサーガを想わせるスタイルである。
 筋はシンプルなものだ。日本橋馬喰町の木綿問屋下総屋三右衛門の妾、柳橋待合香川の主婦おすみの娘おきん(十七歳)が、情夫下総屋の手代利三郎と計画して、密かに三右衛門の息子伸太郎(十二歳)を殺害し、下総屋の跡取りになろうとする。おすみは三右衛門の妾ではあるが、おきんの父親は三右衛門ではないとおきんは利三郎に告げている。このことを三右衛門は知らない。おきんは下総屋に奉公に出て、伸太郎の殺害を果たす。
 この妾の姉との関係が確かに『少年』と似てはいる。伸太郎も信一も内弁慶のわがまま屋だ。伸太郎はいたずらと癇癪の勢いで板面乳母に焼き鏝を押し当てようとするものの、そのふるまいには信一のようなサディスト的な色合いは見られない。やや、十三歳にしては言動が幼すぎるようにも感じられる。

伸太郎 いやだい、いやだい、お前が行つて、お友達を連れて來なきやいやだい。(谷崎潤一郎『戀を知る頃』)

 この台詞はいかにも幼い。精々五六歳のダダではないか。三島由紀夫の『午後の曳航』の十三歳の少年たちの言葉がやはり少し幼いのは、その残虐さとの対比の為であったと思われるが、谷崎が伸太郎をこのように幼く描く理由は定かではない。この『戀を知る頃』の主人公が伸太郎であり、題名『戀を知る頃』の「戀」が伸太郎のおきんに対する思いであることは確かだ。伸太郎はおきんに戀をした。葛籠を運んでいる時に怪我をしたおきんの右足の小指から血が流れているのを見ると、伸太郎は読本のページを二三枚むしり取って駆け寄り、おきんの足元に跪き傷口に紙を巻き付け、下駄迄拭いてやる。そして血に染まった読本の紙片を懐に入れるのだ。
 伸太郎はおきんと利三郎の間で文使いになりながら、どんどんおきんに惹かれていく。そしてこんなことを言うのは、二人のたくらみを盗み聞きした後なのである。


伸太郎(思ひ切つたる様子) 僕はお前が死ねと云へば、何時でも死ぬよ。
おきん(驚きを紛らす笑ひ)おほほほほ、まあなんて可愛い事を仰つしやるのでせう。(勞はるやうに頭を撫でてやる)さあ、それでは下へ參りませう。(谷崎潤一郎『戀を知る頃』)

 先ほど私は「二人のたくらみを盗み聞きした後」と書いたがそこでは「大恩受けた主人の子だろう」「うまく行けば、お前もあたしも一足飛びに、大家の後継になれるぢやないか」「あたしとおツ母さんとで旦那を欺騙して居る事も、みんな彼の子は聞いたらうよ。十三と云へば相當話の解る年頃だもの」「夜中にそうツと誘ひ出して、物置小屋へ連れて行かう」などという会話がなされていた。「伸太郎を殺しませう」とは言われていないが、自分のことが言われていて、後継の問題が言われていて、物置小屋へ連れて行かれることまでは伸太郎にも解っていた筈だ。その上で「僕はお前が死ねと云へば、何時でも死ぬよ。」と云ったのだから、やはり十三と云へば相當話の解る年頃だものという理屈になる。
 その上で、改めてこれは戀の話なのか、と考えてしまう。
 伸太郎は利三郎に暗闇で絞殺され、おきんによって着物を剥がれ全裸にされる。谷崎のマゾヒズムが現れているとしたらこの場面とおきんの足元に跪き傷口に紙を巻き付け、下駄迄拭いてやる。そして血に染まった読本の紙片を懐に入れる場面のみ。まるで『惡魔』で水っ洟の浸みた手巾をしゃぶらせたことに「汚い」と文句を言われたことを反省するかのように、『戀を知る頃』では「汚い」ものは書かれない。問題はそれに代わるものも見当たらないことだ。薄められたマゾヒズムだけがある。
 そればかりではない。少々ロジックが混線している。
 惚れた女に殺される。そこに陶酔するためには暗闇で利三郎に絞殺されてはいけないのではないか。この世の最後に見るのは、おきんの残酷な笑みでなくてはならないのではないか。また伸太郎が戀を知るには、この三幕芝居を見なくてはならない。伸太郎はおきんによって裸に剥かれる自分を見ることができない。全裸にされる喜びを味わうことなく、伸太郎は死んだ。

https://note.com/kobachou/n/n0ddffd2c95bf

 私は『少年』において内弁慶の信一の一貫したサディズムという主題がいつの間にか立ち消えとなり、明らかにマゾヒストであった光子が急にサディストに転じて、仙吉と榮の上半身のみ責めるというちぐはぐさを指摘した。光子にはドミナの資格がないと書いたのは、『少年』がマゾヒスト小説として物足らないという意味ではない。谷崎潤一郎が何処か信用できないという意味だ。
 ともかくも伸太郎が殺され、全裸にされることを眺めて楽しむのはマゾヒストではない。どちらかといえばサディストの立場である。菊池風磨くんの水着が水に溶けてち◎こがむき出しになると大爆笑する小池栄子にはサディストの素質があり、その小池栄子の大爆笑にゾックとする人にはマゾヒストの素質がある。これは理屈だ。谷崎作品がサディスト文学であるなど、沼昭三は頑として認めないだろうが、これは単なる「感想」ではなく、ロジックから浮かび上がる読みである。残念ながら。

【余談①】『戀を知る頃』の言葉たち

帳場格子

状挿 柱や壁にかけて、郵便物など書状を差し入れておくもの。書状差し。

猫板 長火鉢の端の引き出し部分にのせる板。 そこに猫がうずくまるところからいう。

栄耀栄華 大抵悪い意味で使われる。
重箱の鰻 

…お昼から一万四千円とは高すぎる。

抓る つねる
喋舌る しゃべる
くけ臺


【余談②】神経衰弱では説明できない「先生」



 夏目漱石の精神病に関しては既に多くの論文があり、その成果がある程度確認できるものの、『こころ』の先生についてはこれというものが見つからない。明確なのはアセクシュアルではないこと(人間を愛しうる人とされている)、単純なホモセクシャルではないこと(ホモファビアではないが同性愛を恋に上のぼる楷段、異性と抱き合う順序と捉えている)、プラトニックラブの人であるということだ。結果的に静との間にセックスレスが伺われることから私は精神以前にその肉体に先天性性的不能を見て居る。また「私の過去を善悪ともに他ひとの参考に供するつもり」というところから夏目漱石同様の「神経衰弱善人説」に近い自己肯定感を持っていたことが伺われる。
 妻に対する愛情は薄れても蒟蒻閻魔の嫉妬心は消えないし、働かないでも暮らせるだけの財産を持ちながら、遺産を掠め取られたと叔父への恨みも消えない。この執念深さと関係妄想的な要素は統合失調症と見做されかねない。だがそれは病気というよりは、鬱の素質に留まるように思える。白いテーブルクロスにこだわるのと同じである。
 突然の立小便も単なる突然の尿意ゆえであろう。
 何でもかんでも病気にしてしまうときりがない。



なんか、いい人。




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