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谷崎潤一郎の『信西』を読む 京都には朝敵は栄えない

 小説『信西』(しんぜい)は平治の乱における信西(藤原通憲)の死の場面を切り取り、ほとんどそのまま淡々と描いた一幕の劇小説のように見える。まずはそう見える。しかし例によって私はこの谷崎潤一郎という作家を全く信頼していないので、そんな見せかけをそのまま受け取る気には全然ならない。注意深く繰り返し読んでもあからさまな引っかかりはないものの、どこか信用できない。例えばその題名である。いや、それは単なる人名なのだが、まるで東を信じないと云っているように思えるのだ。

 たとへ京都は、一旦右衛門の督や左馬頭の手に落ちても、昔から朝敵の栄えた例はございませぬ。(谷崎潤一郎『信西』)

 といい、信西の朗薫に西光、西清、西景、西實と名付けるのは、いかにも東を嫌っている、東夷を嫌っている態度ではなかろうか。明治天皇はわざわざ京都から逃げ出して江戸に居を構えた。明治天皇が京都から離れることには合理的な理由はない。京都には朝敵は栄えないとは、明治以降如何にも剣呑な言い回しではなかろうか。これはそもそも『平治物語』には現れない言葉である。

 なお『平治物語』では信西に「シンサイ」と読み仮名が降られている。古い書物では濁点が抜けることは珍しくないが「シンゼイ」と「シンザイ」では流石に違いすぎる。これほどまで信西とは曖昧な存在なのである。

 また『愚管抄』にも京都には朝敵は栄えないといった会話は記録されていない。

https://lab.ndl.go.jp/dl/book/991104?keyword=%E4%BF%A1%E8%A5%BF&page=55

 
 つまり「京都には朝敵は栄えない」とは、谷崎潤一郎の完全な創作である。完全なとは言いすぎか。しかし明治天皇が江戸に居を移したことに、誰かは同じようなことを言っていたかもしれない。

 ところで平治の乱がなんであったのかということさえ、今の私には不確かだ。いくら調べても答えがない。不可解な事件だとしか言いようがない。


 まずそれが何かしらの政変であったということは解った。謀反である。しかし流れが呑み込めない。

鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河帝は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。(ウイキペディア「後白河天皇」より)

 なるほどいつの時代にもこうした怪僧がいるものだ。ラスプーチンみたいなものか。で、なんだかんだあって、なんだかんだある。そのなんだかんだのはじまりが平治の乱である。

師光 保元このかた世には泰平が打ち續いて、源平の武士は内裏を守護し奉り、朝廷の御威光の至らぬ隅もなく、わが君の御身の上は盤石のやうに確だと思はれますのに、どのやうな仔細があつて、今宵のやうな見苦しい事をなされまする。(谷崎潤一郎『信西』)

 平治の乱以前、こういう状況ではなかった、と谷崎潤一郎は見ている。
 ウイキペディアでは後白河上皇陰謀説もある。
 いや、これは国から禄を食む歴史家が必死にやっつける事柄なのだが、誰も怠けているのか一向に明らかにはならない。つまり谷崎潤一郎は平治の乱の答えは持たないまでも、このいかがわしさには辿り着いていたのではなかろうか。平治の乱は何となくいかがわしい。
 作品としての『信西』はいかにも小品で、「京都には朝敵は栄えない」以外にぎろりとした表現も確認できない。平治の乱は何となくいかがわしい。明治天皇は京都から逃げた。東京では朝敵が栄えた。色気のあることは何も書かれていない。ただいざとなれば、どんなに安泰に見える者もたちまちその立場を無くし、とらわれて殺されてしまうのだろという、いつの時代にもある当たり前のテーゼが語られているようではある。私が指摘できるのはここまでだ。
 次にいこう。次。




【余談】

、たとえば

便利。


 これもね。



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