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谷崎潤一郎のどこが近代文学なのか① 天皇を呪うもの

 私はこれまで谷崎潤一郎に関して金をとる本を書いたことは無い。それは谷崎潤一郎という作家が全く信用できず、はっきりこれだと掴むことができないからだ。それでもその初期作品を一つ一つ読み解くことで、おおよそこれまで書かれてきた谷崎潤一郎論とは全く異なる「真実の」谷崎潤一郎論が出来つつあった。

 たとえばこれまで谷崎潤一郎には思想がないと言われてきた。政治的なものから遠ざかり、自身の変態性欲に溺れ、女の尻に敷かれる快感のみを追求してきたとされてきた。むしろその快感追求が芸術的な域に達していると評価されてきた、と大雑把に括っても文句は言われまい。しかし谷崎潤一郎論全集の最初の作品『誕生』を読んだ私はこう書かざるを得なかった。

万世一系の血脈を呪い、天孫を人の子の命と再定義しているのだ。「天下の國母」を呪っているのだ。大逆事件の直ぐ後で。とても真面ではない。

しかしこの谷崎のいかがわしさは単なる偶然ではなかった。

『The Affair Tow Watches』は足利尊氏は偉いという素っ頓狂な話で閉じる。

 この小説は最後に足利尊氏は偉いという素っ頓狂な話で閉じる。秀吉や家康の比ではないと言われてすぐ、中島久万吉が足利尊氏を褒めたため商工大臣を追われたことを思い出す人もいるだろう。皇国史観に於いて後醍醐天皇に背いた足利尊氏は謀反人なのである。

 いや、皇居に楠木正成の銅像があるじゃないか、という人はそもそも何故楠公ブームが起こり南朝の忠君が讃えられるのか自分自身で調べてもらいたい。考えるのではなく、まず調べてもらいたい。長州藩が楠公贔屓であり……というところから先を調べて行くと混乱が避けられまい。

 確かに谷崎潤一郎という天才作家、文豪が存在していたとして、その作品が本当の意味で読まれることはこれまで一度もなかったのだ。そのこともこれまで誰にも語られることがなかった。この文章も誰にも読まれることはない。絶対に。






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