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谷崎潤一郎の『小さな王國』を読む ついうっかり忘れたのか?

   これまで私は初期谷崎作品が極めて政治批判的であり、その批判の対象が明治政府そのものではなくその傀儡的中心であった天皇の血脈にあったこと、そして国母を恨むという独特のねじれの中でそうしたメッセージがつづられてきたことを繰り返し指摘してきた。また谷崎潤一郎という作家は信用ならないとして、その変態性、異常な性的嗜好、悪魔派という看板、マゾヒストとしての資質に懐疑的であった。「洟水の染みた手巾をしゃぶること」にたちまち生理的嫌悪を催す読者が「億兆の國民」という言葉に違和感を覚えず、皇后に似せて菩薩を彫らせることも何とも思わないことは勝手であるが、谷崎が変態性、異常な性的嗜好、悪魔派あるいはマゾヒストという解りやすい看板に隠れて、何か極めて真面目なことを主張していることはほぼ間違いがなかろう。

 たとえば谷崎潤一郎の『小さな王國』は貧乏な、小学校教師が、生徒たちの発行する贋金で赤ん坊の為のミルクを買う話である。例によって頭の可笑しい人の話である。前作『人間が猿になつた話』では「猿が人間の言葉を話す」というあり得ない前提がそのまま受け入れられるという頭の可笑しい状況があり、その一つ前の『白畫鬼語』はやはり女に殺されることにあこがれる頭の可笑しい男の話だった。その一つ前の『金と銀』は嫉妬のあまり天才画家を殺そうとする頭の可笑しい男の話である。その一つ前の『二人の稚児』は仏教の嘘話を信じる頭の可笑しい少年の話である。

 予め断っておいた通り、近代文学者というのはたいてい頭がおかしいのだが、谷崎潤一郎はことさら頭がおかしいことにこだわり、頭の可笑しい者を書くことに注力した。別の言い方をすれば、何か真面ではないことを追求した。もともと頭の可笑しい男を持ち出すのがこれまでのやり方であったが、『小さな王國』ではさして変ではなかった男が貧乏に追い詰められて変になる。

 貝島昌吉は三十六歳の小学校教師である。元々は文学博士になろうという志を抱いていたが、妻を娶り、子供が生まれ、月給も少しは増えるにつれ、いつしか立身出世を諦めていた。凡庸さを絵にかいたような人生だ。七人目の子供が細君の腹にある時、貝島は大都会の生活難に耐え切れなくなりG県のM市に引っ越す。群馬県の前橋市のような感じがするが、そうは書かれない。何故かG県のM市なのだ。I温泉のHの山、と書かれると伊香保の榛名山ではないかと思うが、あくまでI温泉のHの山なのである。T河は利根川か? A庭園? G銀行は群馬銀行か? S水力電気株式会社もなんだかわからない。

 貝島がM市に来て二年目、彼の受け持っている尋常五年級に沼倉庄吉という生徒が入学してきた。顔の四角な、色の黒い、巾着頭の憂鬱な眼つきをしたづんぐりと肩の丸い肥った少年で、職工の倅だった。

 沼倉が戦争ごっこ(騎馬戦?)で大活躍しているのをたまたま見かけて貝島は、この少年に一目を置くようになる。或る日の授業で二宮尊徳の話をしていると、生徒の中におしゃべりをしている者がいる。どうも沼倉のように思われて貝島は注意するが、沼倉は否定し、平成から温厚で品行の正しい野田の所為にする。野田は自分がやったと言う。野田ばかりではなく、皆が沼倉をかばおうとする。沼倉は五十人の生徒を威服させていたのだ。貝島は沼倉を懐柔して、生徒たちを行儀良くさせることに成功する。

 七人目の子を産んだ貝島の妻は肺結核と診断される。乳が出なくなり、いろいろな物価が高くなり、生活が苦しい。前途に光明もない。或る日、総領の啓太郎が老母に叱られている。余分な小遣いを与えて居ないのに、色鉛筆や餅菓子をどこかから手に入れているのだ。問い詰めてみると、啓太郎が使っているのは沼倉が発行している偽のお札だった。

 沼倉は大統領になり、一つの国家のような組織を作り上げていた。紙幣を印刷し、財産を作った。その紙幣で各自の所有品が買い取られた。

出來上つた紙幣は大統領の手許に送られて「沼倉」の判を捺されてから、始めて効力を生ずるのである。凡べての生徒は、役の高下に準じて大統領から俸給の配布を受けた。
やがて沼倉は一つの法律を設けて、兩親から小遣錢を貰つた者は、凡て其の金を物品に換へて市場へ運ばなければいけないと云ふ命令を發した。そうして已むを得ない日用品を買ふ外には、大統領の發行にかゝる紙幣以外の金錢を、絕對に使用させない事に極めた。かうなると自然、家庭の豐かな子供たちはいつも賣り方に廻つたが、買ひ取つた物は再びその物品を轉賣するので、次第に沼倉共和國の人民の富は、平均されて行つた。貧乏な家の子供でも、沼倉共和國の紙幣さへ持つて居れば、小遣には不自由しなかつた。始めは面白半分にやり出したやうなものゝ、さう云ふ結果になつて來たので、今ではみんなが大統領の善政(?)を謳歌して居る。(谷崎潤一郎『小さな王國』)

 貝島はついに貧乏に堪えかねて沼倉の家来になり、百万円の財産を貰う。それはまだ頭がおかしいとまでは言えない行為だ。子供たちの間では現実に使える贋金を手にしただけだ。しかしそこで終わらない。貝島はミルク欲しさに、その贋金を大人に使ってしまうのだ。

「えゝと、代價はたしかに千圓でしたな。それぢや此處へ置きますから。」彼は苦しい夢から覺めた如くはつと眼をしばだと袂から先の札を出したとたんに、たいて、見る見る顔を眞赤にした。「あッ、大變だ、己はいつの間にか氣が違つてたんだ。でもまあ早く氣が付いて好かつたが、飛んでもないことを云つちまた。氣違ひだと思はれちや厄介だから、一つ誤魔化してやらう。さう考へたので、彼は大聲にからからと笑つて、店員の一人にこんなことを云つた。「いや、此れを札と云つたのは冗談ですがね。でもまあ念の爲めに受け取つて置いて下さい。いづれ三十日になれば、此の書き付けと引き換へに現金で千圓差し上げますから。」(谷崎潤一郎『小さな王國』)

 これはいくら何でも頭がおかしい。しかしこのくらい困窮している人がいたことも亦事実だろう。『小さな王國』には珍しく、悪魔もマゾヒストも現れない。艶冶な芸妓も出てこない。ただカリスマ的支配と独自の貨幣制度と貧困による精神異常の組み合わせの妙がある。

 無論こんなものを読んでも「せんせも偉いくろうしてはりますな。赤ん坊のミルク代くらいなんぼ何でもなんとか工面できませんの?」と云う読者はいるだろう。だがそういうことではないのだ。

 沼倉は大統領だが國は王國である。つまり大統領に権能を与えた貝島がこの小さな王國を領く國王なのだ。この國王は頭がおかしい。自分の国の偽札が、他国では一文の価値もないことに気が付いていない。そしてこの作品には悪魔もマゾヒストも現れないと書いたが、二宮尊徳も、沼倉に支配される生徒たちも、この大正時代の国民も等しくマゾヒストなのではなかろうか。マゾヒストは組み敷かれることに怒りを覚える代わりに快感を得る奇特な人たちである。では惡魔とは何か。惡魔とはこの時代に栄耀栄華を楽しむ特権階級にある者たちであろう。そこは描かれない。貝島は珍しく、沼倉に膝を屈することに快感を覚えない。

「さあ!早く立たんか早く!此方へ來いと云ふのになぜ貴樣は動かんのだ!」(谷崎潤一郎『小さな王國』)

 このように教師として毅然としていた貝島がやがてこうなる。

「さあ一諸に遊ばうぢやないか。お前たちは何も遠慮するには及ばないよ。先生は今日から、此處に居る沼倉さんの家來になるんだ。みんなと同じやうに沼倉さんの手下になつたんだ。ね、だからもう遠慮しないだつていゝさ。」沼倉はぎよつとして二三步後ヘタヂタヂと下つたけれど、直ぐに思ひ返して貝島の前へ進み出た。(谷崎潤一郎『小さな王國』)

 小学生に沼倉さんはおかしい。この時の貝島の様子は明らかにおかしいのだ。

かう云つた時の貝島の表情を覗き込むと、口もとではニヤニヤと笑つて居ながら、眼は氣味惡く血走つて居た。子供たちは此れ迄に、こんな顔つきをした貝島先生を見た事がなかつた。(谷崎潤一郎『小さな王國』)

 谷崎作品に於いて、狂人はしばしば笑っている。今回貝島を追いつめたのはサディストのおいらんではない。物価高と妻の病気、そして子だくさんである。そこにとどめを刺したのは、沼倉の創り出した出鱈目な貨幣制度である。そこには変態性、異常な性的嗜好が挟み込まれる余地がなかった。単にうっかり忘れていたわけではなかろう。むしろこれが本当の谷崎潤一郎、谷崎潤一郎の正体なのではないか。沼倉を沼倉さんと呼ぶことで快感が得られてこそ真のマゾヒストである。貝島はただあたまがおかしくなって沼倉の手下になっただけだ。ここにはむしろマゾヒストに対する軽薄な差別意識さえある。マゾヒストはけして頭がおかしいのではない。そのことを谷崎潤一郎は理解していなかったのではなかろうか。ただ猫好きであるという程度のマゾヒストには到底理解できない真のマゾヒストの世界がある。冷静に人種差別を論じ、家畜人として原爆さえも受容する沼正三と谷崎潤一郎のマゾヒストとしての資質には根本的な違いがあるのだ。





 






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