芥川文学の本質① 貸本屋文学としての芥川龍之介
えっちらおっちら「やり直しの近代文学」を書いてきて気が付いたことがある。ここにきて急に、芥川は非常に頑固で漱石文学の継承を拒んだ、というところまでは確からしく思えてきた。そこには深い研究もなければ批判もない。
夏目漱石が英文学というものにどっぷりと首までつかり、還元的感化とまで言い切れるものを掴んだのに対して、芥川はあくまで友人の扇動で小説を書きだしたのであり、その基礎となるものは漱石文学ではなくあくまでも貸本なのだ。
そう書いてみて、我ながらまるで開き直った皮肉か冗談でも書いているように感じないではないが、これは確かに芥川自身が告白していることで、揚げ足取りでもなく、隠されていたことでも何もない。三島由紀夫が古今集や『大鏡』が好きだった、というのと同じ意味で芥川は貸本が好きだったのだ。そう捉えなおしてみて初めて、ああ、『羅生門』とようやく腑に落ちるのではあるまいか。
確かに『羅生門』には「作家の私生活を描かない」という新しさがあった。また芥川は恋愛小説らしきものをほとんど書いてこなかった。勿論『羅生門』には恋愛的要素が一かけらもない。下人は無職だが、ただ生活が出来ぬほどに貧しい者たち、社会の最下層にある者たちを描いたという点ではプロレタリアート文学の先駆けと云ってよいかもしれない。遠景からの寄り、視点の切り替えなど巧みな描写を駆使して、無駄な掛詞のない近代的な文体で綴られながら、なおどこかで「何故こんな昔の話を書いているんだろう」という引っ掛かりを与える作品である『羅生門』は、貸本の講談本を土壌にして生えてきたものなのだと割り切ると、ああ、なんだ、という感じがしてこないものだろうか。
なるほどと思う。私が「隠されたもの」や「間違い」にうるさいのは、江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズに起源があるのかも知れない。おそらくその程度のものから始まり、言葉の基礎ができ、ものの考え方や世の中の仕組みというものを学び始めるのだ。当然そこに一つの世界観の雛型のようなものが出来上がる。講談の速記本には、巧みに言葉を飾り大げさに物語を捏ね上げる独特の口調というものが詰まっていたはずだ。だから『羅生門』の芝居は大きいのだ。
だから芥川は速読なのだ。私も立ち読みでこの本を書いた。
座り読みしてしまうとつい校正してしまう。
芥川文学の基礎は講談の速記本の立ち読みにあったのだ。だから立ち読みをしない人にはこんなことや、
こんなことが解らないのだ。
あるいは芥川作品がほとんど理解されていないのは、立ち読みの集中力で書いているからではなかろうか。そうしてこうした語彙や雑学的な情報も、講談の速記本由来なのかもしれない。
そしてなんといっても心地よい芥川の文体は、まず最初に講談師の語りがあり、それが文字起こしされたことによる速記本という存在を考えるとなるほどと思えてくる。
漱石のベースが英文学+落語+写生文、であるとしたら芥川のベースは講談の速記本+斎藤茂吉+北原白秋であり、芥川龍之介の正体はまさに浅香三四郎だったのだ。
浅香三四郎ならば『素戔嗚尊』を書いてもおかしくはない。
芥川龍之介が書いたと思うからいけない。浅香三四郎が書いたと思えばなんということもない。講談の速記本に哲学も思想もないものだ。いや、講談なりの哲学も思想もある。
しかし講談の速記本を書いて自殺する馬鹿がいるとは驚きだ。
本当に私は今驚いている。
講談の速記本を書いて自殺する馬鹿がいるか?