谷崎潤一郎の『私』を読む みんな盗人人種?
私は常々谷崎潤一郎という作家について「信用ならない」と書き続けてきた。あんまりぐちぐち書くものだから、このnoteの唯一の読者である谷崎君は、ついにブチ切れて『私』では「信用できない語り手」「話者の裏切り」というレトリックを出してきた。
筋としてはシンプルなもので一高学生寮で泥棒が出るようになり、平田は「私」(鈴木)を犯人ではないかと疑っている。
こうしていかにも「私」は犯人ではないように匂わせながら、あっさり泥棒するのだ。
この場面まではまだ「私」の真意は解らない。ここから盗人の猛々しい理屈が語られる。
ただ「信用できない語り手」「話者の裏切り」で話を落とすことはないあたりが信用できない作家・谷崎潤一郎の意地でもあるのだろう。「私」は図々しい男ではなく、
……と云ってのける。その上で、また、
と、妙な罠を仕掛ける。実はこれは人種の問題ではなく、「私」の決まりの悪さに共感できるような人には、誰にでも少なからず、やましい思いがあり、何か自分の悪事が露見することをおそれるようなデリケートなところがある筈なのだ。だから多くの人がこの盗人猛々しい「私」に自分と同じようなデリケートなものがあることを完全に否定できないだろう。友人に盗人だと疑われたら、それだけでいい気分はしないだろうな、というところに共感させられていたら、まず罠に嵌る仕掛けだ。だからこの結びで、そこで谷崎の罠に嵌って「え? 私って実は盗人人種だったの?」と一瞬でも思ったとすれば、この小説は成功していることになる。
【余談】村上春樹さんとザ・ビートルズの奇妙な関係について
あくまで余談の余談のようなものなんだけど、僕が『一人称単数』を読んで改めて感じたことの一つは、村上春樹さんとザ・ビートルズの奇妙な関係についてだった。本人の公式なアナウンスとしては、一応『村上春樹 雑文集』にまとめられている通りなのだけど、(つまり一言で言ってしまえば、脅されれば英語の歌詞で歌えるくらいよく知っているけれども、既にジャズに興味がシフトしていたので熱心なザ・ビートルズ・ファンではなかった! ということになるのだけれど)、村上春樹作品といえば『ノルウェイの森』から『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』までまるでザ・ビートルズ憑りつかれているんじゃないかというようなところがある。
この関係性について、特に村上春樹さんに関してというわけじゃないんだけど、ザ・ビートルズ陰謀説のようなものとして、栗本慎一郎が昔書いていたものが、ようやく今になって、つまり『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』まで読んだところで、急に猛烈なリアリティを持つて来たように思う。
特にこの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」についてはいろいろ言われていて、ジャケットにオカルト作家(というより悪魔教作家?)のアレイスター・クロウリーの顔写真が使われている他、ヒットラーの写真も使われる予定だったとか。確か安部公房がミリタリールックに違和感を覚えると書いていたような気がして、ミリタリールック? と見直してみると確かにミリタリールックだなと改めて感心する。
村上春樹さんが梯子を外されたという学生運動の沈下に、ザ・ビートルズのサブリミナル効果が影響したんじゃないかという程度の話は結構有名なんじゃないかと思う。僕は個人的にはUFO、超能力ブーム、オカルトブームがあって、漫才ブームで完全に学生運動ブームがかき消されてしまったという見立てを持っていたのだが、確かにあの時代の若者に、ザ・ビートルズが何らかの影響を与えていたことは間違いないと思う。それは例えば村上さんが脅されれば英語の歌詞で歌えるというくらい刷り込まれていたという事実からも窺い知ることができよう。とにかくラジオをつければザ・ビートルズの曲が流れ続けて居たし、テレビ番組のテーマ曲とかちょっとしたつなぎの音楽には今でもザ・ビートルズの曲が流される。池袋の鰻居酒屋「まんまる」ではずっとザ・ビートルズの曲が流されている。それにしたってその歌詞はちょっと相当に奇妙なものだ。
このザ・ビートルズの呪いに村上春樹さんが侵されていることは、『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』という小説が今更書かれたことからも明らかだろう。熱心なファンでもなかったのに、日本では未発売のハーフシャドーの英国版の『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』のジャケットを一瞬で見分け、それを55年後に小説に書くなんて、いや1964年の設定で今更書くなんて、まともなことではない。
……なんて話を ↓ この本に書いています。よかったら読んでみてください。
渋滞しとる。