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谷崎潤一郎の『人面疽』を読む せんせの正体はおできでっしゃろ?

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 他の作品でもいいのだが、特に『少年の脅迫』などを読んだ芸妓から、「せんせ、いくら誤魔化したって妾にはお見通しですよ。先輩作家Bって、本当はせんせのことですやろ」……などと真顔で言われたら、さて谷崎はなんと答えただろうか。
 悪魔派でマゾヒストなのだから、先輩作家Bといってもそれが谷崎自身を指すものとしか思えないのは当たり前の話だ。
「いやあ、梅吉にはかなわんなあ。ばれてしもうた」とお道化るのか。それとも格好の付けられる上手い返しがあるのか。谷崎もまさかそんなストレートな解釈を打明けられるとは思ってはいなかっただろうが、いやそんなまさかの解釈というものが実際あり得ないとは限らないのだ。
 だから当然『神童』や『鬼の面』、あるいは『朱雀日記』のようなものとして、『前科者』を読み、「せんせは、油絵もおかきにならはりますの?」と訊く芸妓もいただろう。何を書こうが、どんなに自分とは遠い人物を書こうが、その主人公が作者自身でないと認めてもらうことは容易ではない。
 だから『人面疽』は谷崎潤一郎自身の物語ではないというわけではない。私の感覚では、谷崎はこうして身近な話から遠い話まで設定をずらし乍ら、悪魔派という看板がどこまで応用が利くものかと試しているように思える。
つまりここでは、

日本人だか南洋の土人だか分らないくらゐな、色の眞黑な、眼のぎよろりとした、でぶでぶした圓顏の、全く腫物のやうな顏つきをした男です。年頃は三十前後、寫眞の中のあなたよりは十ぐらゐ老けて見えます。(谷崎潤一郎『人面疽』)

 この人面疽が谷崎潤一郎である。ついに谷崎は人面疽になって読者を待ち受ける。
「せんせ、いくら誤魔化したって妾にはお見通しですよ。日本人だか南洋の土人だか分らないくらゐな、色の眞黑な、眼のぎよろりとした、でぶでぶした圓顏の、全く腫物のやうな顏つきの人面疽って、本当はせんせのことですやろ」

https://twitter.com/karapaia/status/1561624497970880513

 
……こう真顔で言われるのを待っているのだ。言われたら次は、どんなものに化けようか、どこまでいじくれば、「さすがにこれはせんせとちゃいますな」となるのかと、反応を楽しんでいるのではなかろうか。
 まあ『人面疽』に限って言えば、これは確かに谷崎自身の投影だと見做されかねないように書いている。人面疽の元は笛吹の乞食である。笛でおいらんを慰める乞食である。おいらんのためなら命を捨ててもいいと思っている。どうもマゾヒストである。しかし人面疽は実体ではなく、活動写真のフィルムの中に現れる修正でも焼き込みでもないもの、しかも役者本人にしてみれば、撮影した記憶すらないものなのだ。いわば「人間の顔を持ったできもの」の化け物だ。
 とりあえず谷崎はここまで捻ってみた。
 これ以上捻るのか、また違う角度で攻めるのか、私にはまだ解らない。
 まだ次の作品を読んでいないからだ。

谷崎潤一郎氏に人面疽のことを書いた物語がある。其の原稿はある機会から私の手に入って今に保存されているが、何んでも活動写真の映画にあらわれた女のことに就いて叙述したもので、文学的にはさして意味のあるものでもないが、材料が頗る珍奇であるから、これは何か粉本があるだろうと思って、それとなく注意しているうち、諸国物語を書くことになって種々の随筆をあさっていると、忽ちそれと思われる記録に行き当った。それは怪霊雑記にある話で、幸若舞の家元になった幸若八郎と云うのが、京都へ登って往く途中、木曽路で出会った出来事であった。

(田中貢太郎『人面瘡物語』)



【余談】

 私は今年に入って、二度粉瘤の手術をした。粉瘤と云うと何か芥子粒みたいなできものというイメージがあるかもしれないが、私にできたのは完全な形を持った異物である。二度ともウズラの卵大で、なんでこんなものが生えて来たのかと不思議になるものだった。人格はないとしても、あまりにも立て続けだったので、それだけでも呪われている感じがした。こいつがしゃべったらこわいだろうなと思った。
 死ぬか、死ぬな、死んだ…というほど痛い二度目の手術の抜糸が終わっていないので禁酒している。禁酒しているので筆が乗らない。このあたりは酒が飲めるようになってから少々色気を足すことにするつもりだ。
 今はしんぼうの時なのだろう。

 やかましいわ。






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