公的な資料はまだ見つからないが(見つかるわけもないが)、乃木夫妻の殉死について、「世間にデマが飛んだ」のはどうやら事実のようだ。クイズミリオネアなどを見ても、オーディエンスとは決してとことん愚かではない。しかしこの百余年の近代文学は愚かであり杜撰である。そこには様々な人々が関わった。誰と誰という話ではない。何千人、何万人という文学者が夏目漱石の『こころ』を読み誤ったのだ。誰か一人が切腹して済む話ではない。もし責任を取るとするなら、何万人かが切腹しなくてはならない。しかし切腹をすれば死ねるわけではない。以下に八切 止夫の記事を引用する。
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html
八切の作品のいくつかはネットでフリーで読むことができる。独特の歴史観の論者ではあるが、ここで述べられていることは概ね常識的な内容ではなかろうか。医師でもある森鴎外が立て続けに殉死小説を書くのみに留まらず、『堺事件』や『高瀬舟』において、自刃による死がいかに困難であるのかと繰り返し書いていることが全くの偶然だとは私には思えない。
そして八切が指摘するように、赤坂警察署の本堂署長が見てきたように緊急記者会見をしていることがおかしい。科捜研でもなければ、これほどまで詳細な説明は難しいのではなかろうか。そしてここにはどうも江藤淳が嫌った聖化が見られる。いや、冷静に考えよう。どうして自分で切腹を成し遂げたことのないものが、切腹の作法を説くことができるのか。語り得るのは『高瀬舟』のような失敗談だけではなかろうか。見事に死ねたのなら、何も語り得ない。語り得るのは自死マニアだけである。
この新聞記事は子供の作文、赤坂警察署の本堂署長の釈明は良くできたフィクションである。
無論これは文学そのものの議論ではない。しかし夏目漱石が乃木夫妻の殉死について「これは神聖か罪悪か」と日記に記し『こころ』ではわざわざ静を生かしたことは認めなければならない。そこに気が付かないで夏目漱石の『こころ』を読んだことにはならない。たとえ江藤淳が見落としていたとして、江藤淳を聖化するのでなければ、このことは繰り返し書かねばならないだろう。大正元年にデマを飛ばした庶民は、もう殆ど生きていない。それでも現代に生きる我々は、夏目漱石と森鴎外のおかげで、明治という時代、明治の精神のいかがわしさに気が付くことができるはずだ。まだお上のすることには間違いはありませんからと信じている人はいまい。