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谷崎潤一郎の『西湖の月』を読む 月って光化学スモッグ前は、どこでも同じじゃないの?


 やはり谷崎君だけはこのnoteを読んでくれているらしい。私が「お話」について、

 …こんなことを書いているのを読んで、今度は紀行文に見せかけたお話を書いてきた。しかも再び自然が芸術を模倣するスタイルを重ねてきた。なるほど油断がならない。

 結びにある蘇小小の墓に刻まれた詩は、そもそも、

 湖山 此地曾埋玉、花月其人可鑄金。桃花流水杳然去、油壁香車不再逢。千載芳名留古跡、六朝韻事著西冷。花鬚柳眼渾無賴、落絮遊絲亦有情。

 こんな感じのものではなかっただろうか。それを谷崎はわざわざこう作り変えているように見える。

金粉六朝香車何在。才華一代靑塚猶存。千載芳名留古蹟。六朝韻事著西冷。湖山此地曾埋玉。花月其人可鑄金。桃花流水杏然去。油壁香車不再逢。花鬚柳眼渾無賴。落絮遊絲亦有情。燈火珠簾儘有佳人居北里。笙歌畫舫獨教芳塚占西冷。(谷崎潤一郎『西湖の月』)

「金粉六朝香車何在。才華一代靑塚猶存」は「金粉六朝香車何。才華一代靑猶存」を少しいじっている感じか。「千載芳名留古跡。六朝韻事著西」とすべきところ「千載芳名留古。六朝韻事著西冷」とする。(「冷」が落ちる資料もある。)「湖山 此地曾埋玉、花月其人可鳞金」という記録もある。「湖山 此地曾埋玉、花月其人可金」としている。「桃花流水窅然去」は李白で「桃花流水然去」が正しいとして、「油壁香車不再逢」を「油香車不再逢」とする意図は如何。

 この蘇小小に準えられるように、作中では酈小姐という上海のミッションスクールを卒業した十八歳の美しい少女が阿片を飲んで西湖に身投げして亡くなる。これが『西湖の月』の「お話」である。この少女とは汽車の中で、あるいはホテルのベランダで会っている。金時計を嵌めたまま死んだ。それだけの話である。痛ましいも、勿体ないもない。ただ風雅の中にこの死を置いている。

 もし人間がほんたうに斯う云ふやうな心持で、静かに静かに船に揺られながら、うとうとと水の底へ沈んで行く事が出来たなら、溺れて死ぬのも苦しくはなからうし、身を投げるのも悲しくはあるまい。(谷崎潤一郎『西湖の月』)

 こんな伏線をそっと回収するだけの「お話」である。「油や漆塗りの囲いのある女性の乗り物に、(一度だけは出逢ったが)二度と出逢うことがない。」のも確かで、「こちら(西湖の湖面)にいる花の様な妓女(酈小姐)、そちら(船の上)には、切れ長の目をした男性(「私」)それぞれが一人ぼっちでいる。」という絵も出来ている。「香車」を「やりて婆」の意味として「六朝時代のやりて婆はどこへ行った?」とまで解釈するのはやり過ぎか。それにしても谷崎君、サイコやなと思う今日この頃。

 





【余談①】『西湖の月』の言葉たち

嘉興 チャシン ジャーシン

大総統 辛亥革命後、1912年から1924年までの中華民国の元首の称号。

黎 元洪

樽柿

アンペラ カヤツリグサで編んだもの

歌妓 宴席などで歌をうたって興をそえる女。 うたひめ。 芸妓。

楊鐵崖

https://baike.baidu.hk/item/%E6%A5%8A%E7%B6%AD%E6%A5%A8/2585952


李笠翁

蜃中楼傳奇

湧金路 浙江省绍兴市诸暨市涌金路

三潭印月

林和靖

炒餅

【余談②】

 月って、どこでも同じじゃないの?

 月の光で水死体の金時計の文字盤の針が読めるという話、これはどこか『母を戀ふる記』の月明りの明るさにも似ている。つまりすべては「私」の夢落ちであり蘇小小の墓だけが真実であるという可能性が絶対にないわけではない。

 常識的に言えば、針に蛍光塗料が塗られていない限り、月光で時計の針は読めない。谷崎は明らかにあり得ないことを書いているのだ。この國には、美人が身投げする風雅も成り立たないとでもいうかのように。














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