人の悪い芥川
「お父さんは相当な皮肉やさんだったけど、私や使用人にも荒いことばで何か言ったり怒ったことはない人でした」「お父さんは普段怒らないし、やさしい人だったけれど、皮肉やさんでしたね」(芥川瑠璃子『双影 芥川龍之介と夫比呂志』)これは文の言葉である。瑠璃子は「ちょっと人の悪いところもある龍之介」と書いている。
私は既に芥川龍之介作品の核は「逆説」であると書いた。この『実感』では「死骸の幽霊は怖くない」という逆説が述べられている。
これも逆説である。皮肉屋さん、少し人が悪い……その感じはこうした芥川の独特な論理からくるものではなかろうか。
なるほど理屈である。人が悪いと瑠璃子は書いているが、この皮肉は芥川が人を楽しませようとした工夫であろう。『鼻』に始まり、多くの作品が逆説を核に持っている。このことは芥川龍之介が早々と「ご卒業」されてしまい、『羅生門』が国語教科書で読まれるほかは、太宰治や夏目漱石作品ほど読まれることもなく、『藪の中』などわずかな作品しか文学研究の俎上に上がることがないことと無関係ではなかろう。『貝殻』は殆ど落とし噺である。落とし噺は落とされてしまえば面白いだけの話になってしまう。また制御された話でもある。『鼻』も逆説ながら、正宗白鳥をしてどこが面白いのか解らない話と見做された。「解らない」ことは一つの価値である。
夏目漱石は皆迄書かないことに拘った。特にギヤチェンジしたかの如く急にレベルを上げた『三四郎』においては「徹底的に隠す事」「ちょっとやそっとでは解らないこと」「よく考えても解らないこと」「解ると言えば解るものの定かではないこと」などを使い分け、さまざまな「解らなさ」を提供している。その「解らなさ」が後に膨大な漱石論を書かせることになったのでなかろうか。
罵倒名人・太宰
太宰治は単なる皮肉屋さんではなかった。罵倒屋さんである。芥川龍之介が嫁から皮肉屋さんとよばれ、息子の嫁から少し人が悪いと言われたのは、少しでも面白いことを言おうとしてサービスし過ぎた結果、その逆説が擦り切れ、そこに面白みが感じられなくなってしまっていたからではなかろうか。『河童』を『ガリバー旅行記』と比較することは残酷だろうか。同じ皮肉屋ながらスウィフトの風刺は単純ではない。しまいにはどちらが真面なのか解らなくなるからだ。例えば芥川は「或農夫の論理」を笑ってはいるが、信じてはいまい。これが太宰になると本当の意味で相対化されるようなところがある。
太宰にはこの一対一の感覚があった。私は芥川を不当に貶め、太宰を持ち上げたいような下卑た太宰ファンではけしてないが、芥川には確かに選ばれし者の自覚があった。
これが太宰なら「なんですか。修辞学、とはどんなことですか。」と急に居直って、私にからんで来たのである。
私は恐ろしく、からだが、わくわく震えた。落ちつきを見せるために、机に頬杖をつき、笑いを無理に浮べて、
「いいえ、ね、波がチンコロって表現が修辞学的でしょう」
「大工が比喩をつかっちゃいけませんか? おかしなことを言うじゃないですか。私の顔を見て、修辞学とは、おかしなことを言うじゃないですか。」
私も、今は笑わず、
「馬鹿にしているんじゃないよ、むしろ褒めている。君は、そんな、ものの言いかたをしちゃ、いけないよ。」
「へん。こごとを聞きに来たようなものだ。お互い、一対一じゃねえか。何比喩は文士だけのものなのかね、大工が比喩の一つを使ったって、何もお前さんに、こごとを聞かされるようなことは、ねえんだ。」
…となる訳である。一対一だ。ツイッターでは日々一般人が名言をバズらせている。これが一対一だ。芥川はこれを大工が名言を吐いたと笑っているのである。確かに少し人が悪いと言えなくもない。皮肉屋さんと受け止められても仕方あるまい。ただし芥川龍之介は恐らく何か面白いことを書こうとしただけなのだ。それを人が悪いだの皮肉屋さんだのと括られては辛い。それは面白い筈の所を飽きられてしまっていることと同じだからだ。
残念ながら、今こういう小説を持ち込めば編集者から、「うーん、もう少し捻りがないと難しいな」と渋られるのではなかろうか。初めて読んでさえ、どこかで見たような気がする単純さというものがある。『河童』にはところどころそういうものがある。『ガリバー旅行記』の様々な世界には、今でも政治問題として真面目に論じられる要素が多々ある。『家畜人ヤフー』は『ガリバー旅行記』を踏まえながら、単なる思考実験に止まらない、家畜となるユートピアが描かれる。これはもう風刺小説ではない。ある意味発見と言って良い。夏目漱石が『ガリバー旅行記』に感心し、三島由紀夫が『家畜人ヤプー』に感心したように、昔の私は確かに旧字体の筑摩日本文学大系の『河童』に感心した。しかし今青空文庫で読む『河童』には単純なところばかりが目に付く。そして芥川龍之介が多用する甲論乙駁が蒼いマスターベーションにさえ見えてくる。
三島由紀夫の蟹嫌いの原因
この『右大臣実朝』については、
①大変な時機に苦労して書かれた珍しい長編であること
②作中にある歌が実朝自身のものであり、実朝を悪く言う歌人、評論家が殆ど現れないこと。(芭蕉、子規、斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明らが激賞している。この面子に喧嘩を売ることができるのは…)
……から「真に受けた」真面目な評論ばかりしか見つからない。つまり三島由紀夫が定家卿に憧れたように、太宰治の憧れは源実朝にあったのだという角度からの評論ばかりが見付かるのである。実朝はイエス・キリストだとまで書いている人がいる。その傍証として『鉄面皮』で実朝と太宰が引き寄せられることが指摘される。『鉄面皮』の結びは『右大臣実朝』の引用箇所そのままである。その手前にこのような太宰が描かれる。
私の意見はこうである。『金槐和歌集』をつぶさに眺めれれば、実朝の歌には平凡なものと風変わりなものがあり、太宰はいずれも風変わりなものを拾っている。太宰は実朝に心酔していた訳ではなく、面白いと思い、その面白さを書いたのだと。その証拠は『津軽』に繋がる蟹のプロットにある。
三島由紀夫は蟹嫌いを公言していた。ただ正確に言えば「蟹の味」ではなく「蟹」という字が嫌いだったのである。私は何の根拠もなく三島由紀夫を蟹嫌いにしたのは『右大臣実朝』と『津軽』だと確信している。『津軽』には「蟹」の字が83回現れる。
三島由紀夫と因縁づけて読むと、この箇所は妙に可笑しい。三島由紀夫が蟹嫌いを思いついたのが太宰由来だと思い込みたくもなる。それはともかく、もしも太宰が実朝に心酔していたのではなく、面白がっていたとしたのなら、これは大した意地ではなかろうか。
太宰の意地
太宰の批評眼はここでは云々すまい。夏目漱石を「俗中の俗」と断じたのは太宰だ。だが誰に対しても遠慮がない事だけを確認しておこう。太宰は憧れの芥川龍之介にも遠慮しない。
普通の人が書けばこれは手放しで褒めていると受け取っていい書き方ではあるが、私にはどうも太宰が実朝をからかっているようにしか読めない。これはどう考えても一旦にぎやかな人間関係を経て、それが失われた者が詠んでこそ意味がある歌である。そうでなければ嘘である。十七歳の少年が懐かしむ昔などなかろう。あったとして大人から見ればそれは滑稽なものだ。(それに新古今和歌集が出来上がるのは1216年,1192年生まれの源実朝が十三歳になるのは1205年、計算が合わない。これはわざわざ古今和歌集と間違えたのだろう。ほかの歌も精査するとおかしなところがたくさんある。)
この太宰の意地があってこそ太宰作品は今でも大人の鑑賞に堪えうるものとして読み継がれているのではなかろうか。芥川が大人の鑑賞に堪えないというのではけしてない。大人にこそ切実に響く『トロッコ』のような傑作もある。『トロッコ』は大人が少年時代を回顧する作品である。しかし大人の前にも「あの時と同じ」不安がある。大人だからこそ響く作品である。その辺りについては、
……という感想をひとまず置いておく。