谷崎潤一郎の『愛すればこそ』を読む 「Tの野郎」?
どうもこれは『ある調書の一節』の全体を飲み込んでその前の部分を膨らませたような設定になっている。悪い罪人の山田がBで、女房をいじめる。そしてますます佐藤春夫と女房をやり取りする話の暴露のような筋書きになっている。三好が佐藤春夫、山田が谷崎潤一郎だと見れば、その筋書きをさらう必要もないと思えるほどだ。
当然遊びがあちこちに見られる。例えば山田が長髪であったり、ツンデレであったり、三好のところに行くと約束した澄子が心変わりするあたりはまさに虚々実々のあわいを楽しんでいるといった雰囲気がある。しかしどうも露悪的である。たまにツイッターでおちんちんを出してしまっている大人を見かけるが、どうも似た感じがないではない。筋はある。しかしこれは筋なのかと、つい芥川の仕返しがしたくもなる。これはエッセイと小説のあわいを掘っていった多くの作家たちの企みとはやや異なるものに思える。実際とは何か別様のものを描くという点では同じだが、何かが違う。
これまでも谷崎潤一郎は何度も「焼き直し」のような作品を書いてきた。今回も『ある調書の一節』の焼き直しとみれば、それは『鮫人』と『眞夏の夜の戀』の関係を思い出す。
思えば『鮫人』は『眞夏の夜の戀』を飲み込んだことを忘れさせるほど肥大化して、筋を失う。『ある調書の一節』は『愛すればこそ』のお尻の部分を引き受けているので、たとえば『愛すればこそ』の第一幕はその前振りとして設定を組んでいるだけに過ぎないように見え、既に冗長なのだ。
二幕も三幕も二人の男の間での「女房のやり取り」に終始する。当人たちにとってはそれはそれで一大事なのだろうが、こうくどくどとやられると何が芝居を成立させているものかと疑問にもなる。好きな方に行けばいいじゃないかと突き放して見たくなる。一幕目ではまだ刑事が出てきて、一応社会との接点があったものの、二幕目以降は見事に男女の世界に話が閉じているので、芝居であるという以上に平面的なのだ。結局話としては三好が山田の女房を諦めて終わる。事件というほどのことはない。
敢えて言えばここでは「善人と悪人の対決」というこれまでの図式に加えて「善人であればこその弱さ」「弱さからついしてしまう不本意なふるまい」という要素が現れることが新しい。例えば山田の女房・澄子は弱さから山田を捨てられない。弱さから三好を騙す。三好もやはり善人ならではの弱さから、澄子になびき、執着し、つい人妻と知りながら一線を越えてしまう。強い悪人に対して善人の弱さを描いた作品と見做しても良いだろうか。
ただ無駄に長い。それはねらいではなかろう。
谷崎自身も後に「『改造』に乗せた序幕はだらだら長くなつてしまひ、題も氣に入らなひので、『中央公論』の方は『堕落』と題を替へた」「二幕目は男と女が二人きりで長々往来で話をするのだし」と書いている。
それでも谷崎のことだから何か仕掛けがあるだろうと注意深く読み進めていくと、やはり仕掛けはあった。
山田 どうしてだらうと餘計なお世話だ。お前が嫌がるだけ己は猶更さうさせるんだ、──え、おい、なぜお前にそれが出来ないんだよ、彼奴だつてTの野郎だつて同じ譯だぜ。(谷崎潤一郎『愛すればこそ』)
「Tの野郎」とは誰か。
島田雅彦なら「キング、天皇です」などと決めつけてしまうかもしれないが、そう何でもかんでも天皇にすれば良いというものでもなかろう。悪人である山田の造形には谷崎自身が投影されていることはどうしたって否定できない(無論戯画化という意味でだが)ところなので、山田が「谷崎の野郎」と言うのはおかしい。おかしいけれどもこの芝居の登場人物は、橋本牧子、圭之介、澄子、三好數馬、山田禮二、秀子、……。つまり見事に「Tの野郎」が見当たらない。
さて冷静に考えよう。まず「彼奴だつて」の彼奴とは三好のことである。好きなやつを客に取れ、と言っている場面なのだ。要するに善人の弱さを利用して「愛」を「商売」に取り換えてしまおうという腹だ。これは澄子と三好にとって屈辱的なことだ。まあ、それはいい。ともかくはっきりしているのは三好ではないということだ。まあ三好數馬を「Tの野郎」と呼ぶ変わり者はそういないだろうが。
そしてもう一つ言えることがある。おそらく男性であり、その名を伏せねばならぬ、あるいは伏せた方が面白い人物である。さてこの条件から考えてみると、「Tの野郎」とは?
まず第一候補はやはり谷崎潤一郎であろう。そもそもこの話が谷崎潤一郎と佐藤春夫をモデルにした露悪的な筋書であることから、谷崎の名が仄めかされること自体が面白いといえば面白い。山田が谷崎に言及するというメタフィクショナルな遊びがあり、谷崎が「Tの野郎」と見下され、「女買い」を揶揄われることが面白いと言えば面白い。これが天皇ではあまりに唐突すぎて、あれこれ考えたがやはり上手い絵にならない。ただし近代文学2.0の流儀では「しったかぶらないこと」こそが重要なので、ここは飽くまでも第一候補に留めることとしよう。
違うよ、という人手を挙げて。
はい、下ろして。
【ちなみに】天然鯛焼きの店に並ぶ人たち
天然鯛焼きの店に行列する人がいる。確かに昔「泳げたいやきくん」という歌が大流行したので、何割かの人は天然の鯛焼きが存在すること、鯛焼きが泳ぐことを信じているのかもしれない。
しかし私は天然鯛焼きなど実在せず、鯛焼きは全て人工物であり、鯛焼きが泳ぐことはないと考えている。この考えは間違っているだろうか?
人形町にあるこの鯛焼き店では堂々と「天然鯛焼き」の看板が掲げられている。皆何の疑いもなく行列し、鯛焼きを食べる。持ち帰るより、その場で食べている人の方が多い。ならばその鯛焼きには骨も筋肉も内臓もないことは解るはずだ。小麦粉と餡子でできた生き物など存在する筈がない。そんな当たり前のことに誰一人気が付いていないようだ。
夏目漱石は米が稲から採れることを知らなかった。『坊つちゃん』に「米のなる木」という表現が出てくる。米は木にはならない。
世の中にはいろんな人がいる。私にはどうしても天然鯛焼きが存在するとは思えないが、多様性というものを許容すべきなのだろう。
これが木に生えることは知っている。たぶんこんな木に生える。